コウヤは曇天を仰いだ。
灰色の空は重そうに垂れ下がっているが、幸いまだ雪の降る様子をみせないでいてくれる。
翌日、二人は銀月の村を出た。
夜を徹しての雪かきをまた村人たちがしてくれたので、道は歩きやすい。
その道を、二人で黙々と歩く。
昨日のあのやりとりからずっと、ユージーンとは話をしていない。
ユージーンの方も、コウヤに話しかけようとはしなかった。だが、雰囲気は怒っているという風ではなく、むしろ、落ち込んでいるというのが近い。
深い悲しみと、少しの怒り。
それが伝わってきて、コウヤは正直な話、いかんともしがたい気分だった。
自分のことをそんなに大事に思ってくれているとは思わなかった。そして、嬉しいという気持ちもある。
でも、もう自分は気持ちを決めてしまったのだ。
だから、もう迷わせるようなことを言わずに、困らせないで、見守ってほしいというのが、コウヤの偽らざる本心だった。
引き留めようというユージーンの言葉は、コウヤの心の弱い部分を容赦なくえぐった。指摘されることの全てが、コウヤが心の片隅で思っていることだ。
自分でなくてもいいんじゃないか。どうして自分が。
その気持ちはある。嘘も誤魔化しもなしに自分の気持ちを探ってみれば、確かにその思いはあるのだ。
ユージーンの言葉は、コウヤの心の弱い部分に入り込んで、揺さぶった。
けれども、そのすべてを凌駕する想いがある。
春が見たい。
優しく柔らかく吹く風を見たい。
硬い地面を打ち割って頭を見せる春草。波打つ春の草原を見たい。
そして、大切な人たちに、それを見てほしかった。
もちろん、その中には、ユージーンも含まれている。
コウヤは、明星の村のみんなが好きだ。誰もが自分に良くしてくれた。可愛がってくれた。
だからコウヤも、みんなが好きだ。自分に残酷な命令を下した、オルウでさえ。
コウヤは春を見れないが、みんなが見る手助けをできるのなら、いいと、そう心を決めた。
一時間ほど黙って歩いていると、ユージーンから発散される空気もだいぶ和らいだ。
彼もだんまりには飽きたのだろう。話しかけてきた。
「次に行く村はなんて村だ?」
久し振りの会話に嬉しくなって、コウヤは弾む声で答える。
「嵐月(らんげつ)だよ。ちょっと遠いね。十日ほどかかるって」
「じゃ、まー、七日ぐらいか?」
「うん、それぐらいじゃないかな?」
ユージーンの魔法は本当にすごい。道行きの負担がかなり軽減される。
銀月の村の人々が雪かきしてくれた範囲の道が終わると、ユージーンは火球を呼び出した。
と。ユージーンは荷物から食料を取り出すと、かじりながら歩きだした。
「あー……お腹すいた?」
「ああ。この間から魔法を使いすぎた。魔法は使うと腹減るんだよ」
回復魔法二回、火球の魔法が三回。
確かに魔法をここ数日、頻繁に使っている。
火球の魔法は不可抗力としても、回復魔法はコウヤのせいだ。
「ご、ごめん。俺が―――」
「いいんだよ。……お前を殴っちまったのは、ほんとに後悔してる。悪かったな」
「あれは……俺が悪かったんだよ」
心からの反省をこめて、コウヤは言った。
その声に反省を感じ取ったのか、ユージーンの掌がコウヤの頭にぽんと置かれる。
それで、仲直りだった。
◆ ◆ ◆
空が色を増し、景色は急速に灰色に染まりつつあった。
幸い近くに木立があったので、その下に急ぎ天幕を張り、避難することになった。
細雪(ささめゆき)が外套を叩き、その音に追われるように作業をする。
何とか本格的な降りになる前に天幕の中にもぐりこむことができた。
今日は中で火はたけない。天幕の中が狭いのだ。木立を雨風除けに利用して、小さく張った天幕に、そんな場所はない。
冷たい携帯食(銀月の村が持たせてくれたもの)で夕食にする。
「食ったら寝るぞ。寒いからこっち来い」
「うん」
お互いをお互いのぬくもりで暖めあって、眠った。
翌朝になると、世界は一面の銀世界になっていた。
昨日までに踏破した道も、雪の嵩こそちがうものの、綺麗に白化粧されている。
「おーやんだな。よかった」
「数日閉じ込められるかと思ったもんね」
風雪の中、外へ出るのはよほど追い詰められないかぎりはしないほうがいい。
食料がつき、餓死か凍死かあるいは奇跡的に目的地にたどり着くかの、非常に分の悪い三択にかけるしかないという状況のほかは。
風雪の中の行軍は、体温が急速に奪われ、方向感覚も奪われ幻覚も見る非常に危険なものだ。
「ここまでのところはまずまずの天気だよね。きっと、空の神様も俺たちのこと応援してくれてんだよ。神様だって雪ばっかりじゃ、そりゃー飽きるよ。この調子で最後まで応援してくれるよ、きっと!」
ユージーンの手がコウヤの頭を撫で、かきまぜ、くしゃくしゃにし、ぐちゃぐちゃにする。
「ゆ、ユージーンっ」
後ろ髪はすべて三つ編みにしているとはいえ、前髪を完全に鳥の巣状態にされてしまった。
「いやつい。お前の頭は実に撫で心地がいい」
「……嬉しくないんだけど」
手で髪を直し、三つ編みが緩んでいたのでついでに結いなおすことにした。
三つ編みをほどくと、長い栗色の髪が広がる。常時三つ編みにしているので、クセがつき、自然に波打っている髪だ。
三つ編みにすると背の半ばまでだが、ほどくと尻を覆い隠すほどになる。
コウヤでこれだから、三つ編みにした髪の先端が腰まであるユージーンはもっとだろう。
明星の村の人間は誰もが三つ編みができる。コウヤももちろん、例外ではない。
人差し指、中指、親指。
迷いなく素早く何本もの指が動く様は、楽器の演奏のようだ。
コウヤが編んでいく様を、ユージーンは名状しがたい眼差しで見つめていた。
愛しげな、悲しげな、切なげな。
コウヤは編みおえて、ユージーンを振り返る。その時にはユージーンの顔から先ほどの表情は綺麗に拭い去られていた。
「じゃ、行くか」
「うん」
その後の道行きも天候に恵まれ、順調に進んだ。
雪が少ない地方に入ったのも大きい。
段々と、街道から白くて重い氷結晶は消えてゆき、嵐月の村まであと少しというところで、ユージーンは火球を消した。
雪の量は足首程度。雪に慣れ、雪中用の靴をはいているふたりにとっては、なんということもない深さだ。
嵐月の村に着いたのは、その翌日のことだ。
銀月の村と同じように、長じきじきの出迎えと、歓待を受けた。
ユージーンはあっという間に女性たちに取り囲まれ、その間にコウヤは次の村について教えてもらう。
ジャシムも、この辺からは冬が訪れる前までしか来たことがなく、長い冬の間にどのように変わったのか知らなかったのだ。
返ってきた答えは特段変わりないもので、これまでに経てきた村と似たようなものだった。
思いついて、靴を二足貰い、雪中用のものからこの辺の靴に履き替える。
雪中用の靴は、土の上を歩くには適さない。
ユージーンは、その晩、寝床には帰ってこなかった。
◆ ◆ ◆
その日は珍しい青空だった。
二十日に一回もない珍しい青空に、コウヤは両手を広げて背伸びした姿勢のまま見惚れた。
「おおいい天気だな~」
横から声をかけられ、コウヤは振り向く。声で誰かは判っている。
「ユージーン。昨日はどこいってたの?」
「ばーか。野暮なこと聞くなよ」
それもそうだった。
ユージーンは、救世主と同義の使者で、しかもこの美貌だ。昨日もたくさんの女性に群がられていたし、相手する女性には不自由しなかったろう。
「あったまるには人肌がいちばんって昔から言うだろ?」
確かに、明星の村では昔からそういうが。
「寒いかなあ? この辺」
寒いことは寒い。防寒具なしではつらい。だが、雪が少ないこの辺は、明らかに明星の村に比べると暖かい。明星の村で生まれ育ったコウヤにとってその差は大きく、それはユージーンにとっても同じはずだった。
「おお寒い寒い。なんたってお前が裸であっためてくれないのが一番寒い」
からかうにやにや笑い。
けれどもコウヤも負けてはいない。
「うん、わかってるよー。ユージーンが俺のこと、とっても好きでしょうがないってことは! だからその女の人に妬いたりしないよ、俺」
あれだけ言われたのだ。そんなことないとは言わせない。
ユージーンは一転して苦虫をかみつぶした顔になると、コウヤのほっぺたを引っ張り上げた。
「お前は、ほんっとうに、いい性格してるな」
「ほうりょくはんはい!(暴力反対!)」
ユージーンはケッケッケと笑う。
「おおのびるのびる。正月の餅も顔なしだな、こりゃ。煮て焼いてくっちまうか」
「ほれはまずい!」
満足するとユージーンは手を離した。
コウヤはじんじんする頬を手でさする。
「んで、次の村は何だ?」
「浦月(ほげつ)」
「じゃ、天気のいいうちに出発するか」
「うん」
豪勢な朝食を済ませ、ユージーンに靴を渡し、昨日のうちに荷造りを済ませておいた荷を背負うと、二人は次の村に出発した。
◆ ◆ ◆
久し振りの青空は、本当にいい天気だった。
上を見上げて歩くだけで、なんだか気分が弾んでくる。
地面はもう、土の色が見える。雪ではなく、霜の程度だ。
方位磁石をもとに確認し、世界樹の方を見ると、うっすらと茶色の塊があった。
世界樹は信じられないほど巨大な木のため、相当距離のあるここからも見えるのだ。
「あれが……世界樹?」
「だろうな。……俺が昔見た時は、緑色してたもんなんだが……」
枯死してしまったせいか、茶色い塊にしかみえない。
世界樹を見てはいけない、というのは、ジャシムからの教えだ。
世界樹は、あまりに巨大で、あまりに遠くからも見えるため、遠近感がおかしくなる。
なまじ見えるから、すこし急げばたどり着くような錯覚にとらわれてしまう。だが、それはとんでもない間違いで、道のりは遙かに長く、遠大だ。
世界樹の姿に惑わされるな!
手もとの地図だけを見て、慎重に進むことだ。世界樹を見てはいけない、すぐ近くに思えるだけで、本当ははるか遠くにあるのだから。
その言葉の実感は、すぐにわいた。
釘を刺されたにも関わらず、コウヤはちらちらとそちらを見てしまっていたのだが、歩けども、ちっとも近づいている様子がない。
なまじ、姿が見えるだけにタチが悪い。
歩けども歩けども、まるで変わらない姿に、逆に疲れてしまった。
先人の教訓を生かすことにして、コウヤは意識して世界樹を見ないことに決めた。
夜になり、天幕を張る。
火を焚くほどではないが、やはり冬の野外は、寒い。
「ひっついて寝るぞ。来い」
「うん」
外套を脱ぎ、肌着だけになってユージーンの毛布にすべりこみ、毛布の上から外套をかける。
ユージーンは自分より一回り大きく、小柄なコウヤは胸の中にすっぽりおさまってしまう。
暖かくて気持ちがいいのでコウヤとしても異論はない。昼間の行軍の疲労と、お互いの体温の気持ちよさに、あっという間に寝てしまうのが、いつものことだった。
◆ ◆ ◆
自分の足が、地につく音。ユージーンの足が、地につく音。
自分の息使いと、ユージーンの息使い。
風の音。
それしか聞こえなくなって、どれほど経っただろうか。
規則的に聞こえる呼吸音に、感覚が麻痺したようになる。
ふたりは山道にさしかかっていた。
山の名はカズツィ山という。さほど高い山ではなく、更に頂上まで登るわけでもない。
カズツィ山は標高はさほどでもないが、なだらかな傾斜が延々と広がる山で、その懐はとても広い。
その山肌を中腹辺りまで進み、また下りてくるのだ。
長い上り道はきちんと整備されておらず、また、長い冬の間放置されていたということは、見ればわかった。
人の往来だけで、踏み固めた土の道だったのだろう。
道は石だらけで、木で作った階段、煉瓦の舗装なども一切ない。
五年もたてば山からの落石も相当数で、道は巨石が散乱していた。それを避け、あるいは上によじ登って越える。両手を使い、岩を這い上る個所も多いため、一度はしまった防寒用の手袋を取り出した。
道幅は狭く、人が二人横並びするのがやっと。道に岩が埋まった個所など、一人分の場所すらもなく、岩をよじ登ることもしばしばだった。
靴を変えたことにコウヤは幾度感謝したか、わからない。
かろうじて道らしい部分もあったが、五年もの間ほとんど人の行き来がなかったのだ。その上、落葉樹の落ち葉や散らばる石が、ただでさえ滑る道をさらに滑りやすく変えていた。
かつては踏み固められていたかもしれない道は、ぬかるんで、靴がずるりといく。そのたび、転倒しないよう慌てて木々や岩肌に手をつく。または、滑らないよう慎重に周囲に手をついて進む。
転びやすい重い荷物を背負い、全身を使い、またこの岩だらけの道をどうやれば効率よく進めるか一秒ごとに考えながらの道行きは神経をすり減らした。
会話も絶え、ハッハッという荒い呼吸が山の空気に吸い込まれていく。
足首に平地とは違う負荷がかかり、一時間もすると痛みが走り、二時間もするとひっきりなしに痛むようになって、コウヤはユージーンに声をかけた。
「ユージーン! 休憩しよう、足が痛い……!」
ユージーンは足を止めた。振り返った顔は、さすがに疲れている。
ふたりは道をふさぐ巨岩の上に腰を下ろした。
「足見せてみろ」
「……大丈夫、普段使い慣れてない筋を酷使して痛んだだけだと思う。休んだらもう痛みが消えたから」
歩きだせばまたすぐ痛むだろうが。
「いいから見せろ」
靴を脱ぎ、何重にも履いた靴下も脱ぐ。ひんやりした空気が肌に触れた。
カズツィ山の頂上近くには雪もある。そこまでではないが、この辺りの気温は麓よりずいぶん低かった。
全身を使っての運動に体は熱く、寒さを感じる暇もないが。
ユージーンはコウヤの足を膝に乗せ、足首を手に持って、あちこちに曲げる。
「痛いか?」
「痛くない」
「じゃ、痛めてはいないな。少し休むか。こんだけ難儀な道とは思わなかったぜ。さすがに疲れた」
足を元通りしまい、コウヤはこれから先の道行きを思い、少し暗くなる。
世界樹までは、まだまだある。今まで来た道の何倍もの長さで続いている。その中には、これと同じぐらい難儀な道も、これより難儀な道も、両方あるに違いない。
一瞬気落ちした心を、コウヤは振り払う。
どんなに遠い道も、一歩一歩進んでいけば何とかなる。必ず着くのだ。
ふたりが休んでいる周辺は木々に包まれていた。カズツィ山の麓周辺は伐採が進んで丸裸だったが、この辺は往き来の労の方がまさって、手つかずだ。
熱かった汗が、森の大気に包まれて急速に冷えていく。
木々は常緑樹と落葉樹が混ざり合っている。木々の緑が、見慣れない瞳に、とても美しく見えた。
明星の村の近くの樹は、すべて伐採してしまったし、これまでの道中で、まだ緑の残る木々を目にしたことはあったが、その美しさに目を向けるゆとりはなく、歩きとおしてきた。
コウヤは指差して言う。
「ユージーン。木、綺麗だね」
「んあ? ……ああ、そうだな。そういや、もう五年もまともに見てねえな」
ユージーンは言われるまで気づきもしなかったという態度で、視線を転じる。
その、寒さに強い針状の葉をもつ樹は、濃い緑をしている。
その緑を、美しいと思う。
長い長い冬に、薄くて広い葉をもつ樹はすべて耐えかねて葉を落としてしまった。
木の種類で常緑樹と落葉樹が決まるのではない。植物には適応性があるので、普通の冬季なら耐える種類の木も、長すぎる冬に生き延びるため、葉を落とした。
自らを生き延びさせるために、寒さに弱い部分を、切り捨てた。
植物も、懸命に生きようとしているのだ。この、冬を。
―――大丈夫だよ。
コウヤはそっと語りかける。
―――俺たちが春を呼んでくる。だから、もう少しの辛抱だから。
小一時間の休憩で汗と痛みはひき、代わりに肌寒さを感じるようになった。
「ユージーン。もう大丈夫。行こう」
コウヤは立ち上がった。
カズツィ山を越えるまでに夜になってしまい、木々で星もさえぎられ、目の前にかざした手のひらさえも見えない闇のなか山道を進むのは危険すぎた。見えないので足を踏み外し、崖下へ転落する危険がある。
そのため、山道に泊まることになった。
天幕を張るスペースはないので、ありったけの防寒具を身にまとい、山肌にもたれかかり、夜が明けるのを待つ。獣除けの火を焚くのも忘れない。
「……ちょっと予定より遅れるな」
「仕方がないよ。真っ暗だし」
寄り添ったお互いの体温が、心まで温めてくれる。
コウヤは自分ひとりだったらと考えるとぞっとした。今のような安らいだ気持ちには絶対になれない。かすかな獣の遠吠え、夜の闇、山のなんとも言えない不気味さに、怯えながらひたすら夜明けを待っていたに違いない。
ユージーンがいてくれてよかった。
本当に、心から、そう思う。
願わくは、ユージーンにとっても自分がそうであるといい。
疲れ切った体は、そんな状況でも眠りを求めた。
ユージーンの頭がコウヤの肩にかかり、コウヤの頭がユージーンの頭にもたれる。
すやすやと眠る二人の前に、夜明けが訪れるのはまもなくだった。
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