時期的に本編のすぐ後です。
かつて、ひとりの魔術師が人間に平伏した。
――おねがいします。
――おねがいします。
――おねがいします。
――おれを、ここから、だしてください。
リオンはふと目が覚めた。
頭をもたげると、周囲はものが見える程度に夜明けが近いようだ。
隣のぬくもりが無いことに気づき、目を巡らせると、狭い室内だ、すぐに見つかった。
この洞窟は、狭い通路を挟んでベッドと四人掛けの食卓がならび、そして奥に浴室と厠というだけの、王族のリオンから見れば犬小屋のような部屋だ。
ジョカは、食卓について、頬杖をついて、物思いにふけっていた。
瞳は瞬きをわすれ、生気を宿していない虚ろなものだ。
生きる意志というものをどこかへ置き忘れたような空気が、ジョカの周りを包んでいた。
その目を、リオンは知っている。何もかも、放りだした人間の瞳だ。
自分の命さえ、どうでもいいと思うようになった……そこまで追い詰められた人間の目だ。絶望を味わい、それすらも感じなくなった人間の目だ。感情を持つことさえ、投げ捨てた人間の。
――ときどき、リオンは、痛切に思い知る。
彼の痛みを共有などできないことを。
知ることなどできないことを。
「ジョカ……」
そっと、声をかける。
とうに、リオンの存在には気づいていたのだろう。ジョカは緩慢な動きで首を動かす。
虚ろな瞳が、リオンを中央に捕えた。
怯みかけた全身を叱咤して、リオンは何事もない態度を装って椅子を引き、食卓の向かいに腰掛けた。
じっと、視線が自分を追っているのを感じながら、つとめて何気なく振る舞う。
「――リオン、何か、言って」
「なんでもいいのか?」
「お前の声好きだから……聞かせてほしい」
「よしわかった。ある日、使用人の一人が慌てて私の部屋に駆けこんできた。もちろんそんなのは礼儀に反している。不敬罪だ。私が一人で部屋にいることなどないから、室内には侍従をはじめ数人の使用人がいたから、みんながその侍女を睨んだ。でもすぐに顔色を変えた。たいへんです! そう侍女が言ったからだ。すわ何事かと全員がこころの内で覚悟を決めた。もちろん私もだ。そして実際、とても大変なことだった……。――なんせ原因は私の悪戯だったからな」
滅多にないほど、リオンはよく喋った。
次から次へと笑える話を披露する。
ジョカはリオンの仕掛けた悪戯に引っ掛かった侍女に同情しつつも笑い、優等生に見えた王子のやんちゃな武勇伝の数々に最後には机に突っ伏し、くつくつと堪え切れない笑い声を上げ続けた。
「あー笑った笑った。苦しい苦しい」
あれこれとネタを引っ張り出し、無くなったら即興で作りだして、リオンはジョカを笑わせた。
そう笑い涙をぬぐいながら顔を上げる彼からはさっきまでの陰鬱な空気は消えている。
笑うことで、ジョカの身にまとう空気が変わった。単色の、無味だった景色に、色がついたようだ。柔らかく、ゆるむ。
何があったのか、どうしてあんな目をしていたのか、やっと聞ける空気になって、リオンは尋ねようとして……やめた。
答えなんて、聞かなくても想像がつく。
まだ夜の帳が明けきらない薄闇のなかで、ジョカはリオンにねだる。
「笑って」
リオンは、微笑みを浮かべた。
それを網膜に焼き付けて、ジョカは目を閉じる。
「歌を……歌ってほしい。なんでもいいから」
――老人のように疲れた声だった。己の心の中で、自分自身と戦い、疲労しきった声だ。
食卓の上に、投げ出された手。骨ばっていて、貴婦人のように手入れもされていない男の手を、リオンは握った。
何の歌を歌おうかと考え、すぐに決めた。
をんをんごうごう川の音
おんおんおぎゃおぎゃ君の声
よーく泣く子はよく眠る
眠りや眠りや愛し子よ
大河の音をまくらにして……
ルイジアナに伝わる、古い子守唄である。
王族の教養として、声楽も少しやった(かじった程度)リオンの声には張りがあり、伸びやかで、素人にしては上手い。声変わりしたての少年の声は低音の中にも不思議な透明感があった。
それを聞いて、ぽつりと、彼は呟く。
「――ときどき、くるしくて、たまらない」
「……」
リオンは椅子を下りて向かい側のジョカの方へと廻り、黒髪の魔術師を抱きしめた。
ジョカの背を撫でる。薄い背中だ。骨の感触がはっきりとわかる。
ジョカはその手を拒絶せず、撫でられていた。
リオンは想いを込めて、背をさする。
五分ほど、そうしていただろうか。不意にジョカが言った。
「息が……うまくできなくなる時がある」
「……うん」
ジョカは拳で胸のあたりをおさえた。
「……憎しみをこらえることが、こんなに苦しいなんて、思わなかった」
夢が記憶の扉を開く。
忌わしい過去をあばきたてる。
ほんの、すこし。
天秤に小石を投げ込むだけで、心の平衡は失われる。
……もう、あの暗闇にジョカはいない。
――でも、三百年にわたる傷は、消えやしないのだ。
単なる口約束。
いつでも破っていい、強制力などない約束。
それが、どれほど儚いものか。
人は嘘をつく。それは、魔術師も人間も同等に。
約束の保全は、ジョカの心ひとつにかかっている。
ジョカは顔を伏せたまま、ねだる。
「リオン。名前を呼んで」
「エルウィントゥーレ」
「大丈夫だと、言って」
「エルウィントゥーレ。あなたは、だいじょうぶだ」
「リオン。しあわせになって」
「……」
「俺の前で、誰かに傷つけられたりしないで。特にルイジアナの人間に苦しめられたりしないで。何でもしてあげるから、どうか幸せに笑っていて。お前の幸せのために必要なら、俺を殺したっていいから、どうか幸せでいて。さもないと俺は――自分を、抑えられない」
あの牢獄の中で、ジョカが、何をされ、どんな傷を受けたのか……リオンは、知りたくない。教えると言われても、知りたくない。知る義務があるかもしれないが、それでも知りたくないのだ。
理由は、ただの保身だ。リオンは、ジョカが王家に抱える憎しみの根幹を覗くことが、恐ろしいのだ。
どれほどのことをルイジアナ王家がジョカにしてきたのかを知り、彼の傷を知り、罪を突きつけられることが、怖い。嫌なのだ。
……本当は、リオンは、聞かなければならないのかもしれない。
幽閉の最中、彼の味わった絶望の味を。
でもリオンは聞きたくなかった。保身以外の何でもないが、聞いたら深く傷つく確信があった。……断片的に、彼が漏らす言葉だけでも、想像がついているのだ。
リオンは、膝を折り、俯くジョカと目を合わせて微笑む。
「……大丈夫」
リオンは自分の立場をよく理解していた。
ジョカの復讐を思いとどまらせる鎖でいること。枷であること。
けれど、それ以外の思いが確かにあって、それがリオンにその言葉を口にさせた。
「私は、ずっとあなたと一緒にいる。だから、大丈夫だ」
ジョカがルイジアナを許すことは、一生ありません。
ルイジアナの人間がリオンを殺したら、即座に滅亡させます。
あくまで、リオンに免じて、復讐を思いとどまっているだけで、きっかけ一つで爆発しそうな心のセーフティが、リオンです。
→ BACK→ NEXT
- 関連記事
-
スポンサーサイト
Information
Comment:0