翌朝、村長の見送りを受けて浦月の村を出立する。
「次の村は?」
「雲月(うんげつ)の村」
一日休息の時間をとったおかげで、足取りは軽い。
それに、次の村で半分来たということになる。
明星の村から世界樹までの道は明星の村も含めて、十個の村を経由する。だから次で五つ目。半分になる。
明星、銀月、嵐月、浦月、そして次の雲月で、半分である。
道中はおおむね順調だったが、途中、一度雨が降られた。
水滴を掌で受け、空を見上げて無数の透明の線が走るのを見る。
「雨だ……」
冬になってから、明星の村では雨が降ったことがない。明星の村近辺に降る雨は、雪と変わる。
骨まで沁み入る氷雨だというのに、コウヤはなんだか感動してしまった。
「あほ。濡れるだろうが。とっとと手貸せ」
「あ、ごめん」
この辺には見渡す限り木立はない。切り株はあるから、伐採して、燃料にするか、食べてしまったのだろう。村からもうずいぶん離れているのに、それでも遠方からはるばる伐採にくるほど、食べるものがないのだ。
仕方なく、雨除けの布を頭上に掲げ、ふたりでその布を持って、沁み入る氷雨から身を守っていた。はみ出るまいと、布の狭い範囲に寄り添いあい、暖めあう。
「なんで明星の村には雨が降らないのかな?」
「雨粒をつくる天の神はな、住み分けしてんだよ。雪の神と雨の神、末っ子に霙の神がいて、上空で、仲良く兄弟同士相談して降るものを決めてんだ。明星の村のあたりは、冬は雪の神の縄張りなんだろうな」
へーとコウヤは感心する。
「それ、オルウ様の?」
オルウの道楽は本で、銀山の収益をすべてそれに変えてしまった。魔法書ならまだしも、それはごく一部で、ほとんどはただの書籍だ。
オルウの名前に、ユージーンは露骨にむっとした顔になる。コウヤもすぐ後悔した。
「あのくそばばあの名前、二度と出すな」
日が経って、軟化するどころか硬化しているユージーンの態度にコウヤは内心やれやれと肩をすくめる。
長い付き合いだ。こうなってしまったら何を言っても無駄なことは知っている。
黙って、目の前を通り過ぎる銀の糸の連なりに目を転じた。
雨はほどなくあがり、大気に水の気配がする中を歩き始める。
肺をこする水の感触は、もう五年以上前の、懐かしい記憶を呼び起こした。コウヤはふと、笑みを浮かべる。
まだ、世界が冬に閉じ込められる前の。
一度雨に降られた他は滞りなく、浦月の村を出て十五日後、ふたりは雲月の村に到着した。
◆ ◆ ◆
雲月の村は、異臭がした。
生き物なら誰もが慣れ親しんでいる匂い。だけれども、今の時期、昼日中から村の中にあるには、いささか場違いな匂いだ。
糞便の匂いだった。
村に入った時からその匂いには気づいていたが、村長の家に招かれ、食事を出されてコウヤはその正体を知った。
「……牛を飼っているんですか?」
食事とともに出されたのは、一杯の牛乳だった。
久方ぶりの牛乳は濃く、甘く、胃の腑にしみわたった。
日持ちしないこんな食品は、貯蔵しておいたとは考えられない。村で飼っているのなら、村全体に薄く漂う異臭にも納得がいく。
村長は鷹揚に頷いた。
「ええ」
ユージーンもたずねる。
「まだ、潰されていなかったのですか―――。まぐさはどうなされてます?」
「幸いこの辺には寒さに強い雑草が生えておりまして。それでなんとか、というところです。潰してしまえばそれまでですが、生かしておけばいつも牛乳と、仔牛が手に入りますので」
案外知られていないことだが、牛は、子どもを産んだから乳をだす。
よって牛乳を継続的に手に入れるには、継続的に妊娠させなければならないのだ。そして当然妊娠すれば仔牛が生まれる。
「しかし……天然の雑草だけで、牛をはぐくめますか?」
「こちらでも当然、努力はしています。雑草を増やす努力ですね。種を取り、蒔いて増やしています。それでも多くの牛は無理ですので、牛の数を調整していますし、食餌量を減らしているので、体も小さいです」
そこで、いたずらっぽく笑って言う。
「いいことばかりでもないですよ。雑草というのは、畑を作る際には邪魔者以外の何ものでもありませんから。お二人のおかげで春になったあと、雑草が一面にはびこった畑を元通りにするのにどれだけ手間がかかるか考えると、頭が痛くなりそうです」
……これは、無理だな。
話を聞きながら、コウヤは明星の里では無理と判断する。
雪に地面がすっぽり覆われる明星の村では、牛を飼うのに必要な莫大な量のまぐさを調達できない。牛というのは、あの巨体に比例して、大食らいなのだ。
ユージーンもそう判断したのだろう。その後の会話は、当たり障りのない世間話だった。
夕食が終わり、用意された部屋に引き揚げる。
この村は、牛のおかげで余裕があるらしい。おかげで夕食を御馳走になるのに罪悪感に苛まれずに済んだ。
客間は寝台が二つ置かれていて、コウヤは入って右側の寝台に体を投げ出す。
「牛乳、美味しかったー。チーズとバターも!」
ユージーンも頷く。
「だな。きっとできたてだろ、あの味は」
冬が始まる前でさえ、明星の村で乳製品は「ご馳走」の部類に入る食事だ。今では「一生に一度の大御馳走」レベルの食事だった。
頬が落ちるような、というのはああいうもののことをいうのだ。
「じゃ、腹いっぱいになったし、食うか」
コウヤはきょとんとする。
「え? ご飯食べたじゃん」
ウッヒッヒッとユージーンはさも楽しげに笑い、両手をわきわきさせる。
「ばーか。食うは食うでも違う意味だよ。わかるか? 普通は男と女のやることで、くんずほぐれつ親交深めることだよ」
意味を悟ってさあっと血の気がひく。
が。
いつまでもからかわれていてたまるかと、コウヤは胸を張った。
「へーいいね、楽しそうだね。ユージーンならきっと上手いだろうし、ちゃんとした寝台もあるしお腹もいっぱいだしね!」
ユージーンが男を本気で相手にするはずがない。たちの悪いからかいで、コウヤが焦るのを見て楽しんでいるのだ。
しかしその思惑は完全に外れた。
「おー。お前もその気になったか! 嬉しいぞ」
手を引かれ、抱きしめられそうになって、コウヤは慌てて振り払った。
「お、男は嫌いだって言ってたじゃないか!」
「お前は可愛いっていっただろ?」
ユージーンはにんまりと笑う。
「ひでーなー。俺はちゃんと、お前は可愛い、って言ってやってたのに、ちっとも本気にとってなかったわけか。―――お仕置きが必要だな」
ずざざーっと思わず壁際まで下がって抗弁する。
「お、俺は美味しくないしっ! 女の子じゃないし! 固くて抱き心地悪いってば!」
「俺が嫌いか?」
そんなときだけ、真顔に戻らないでほしい。
「き、嫌いじゃないけど……」
「じゃ、好きだな」
その論法を何とかしてくれ!
後ろはもう壁。近づいてくる顔を必死に手で押さえる。
どうやってこの窮地を逃れようかと必死になって頭を巡らせていると―――ぐふっという声がした。
見れば、ユージーンが笑っていた。
片手で口元を覆い、もう片手でコウヤの顔の脇の壁に手をついて、体を二つに折り。
それはもう、これ以上この世におかしいものなんてないという風に。
心底おかしくてならないという風に、笑っていた。
こらえようとはしているらしい。さっきの不気味な音は、ユージーンが笑いをこらえようとしてこらえられなかった音だ。客室を間借りしている分際で、大爆笑するのは迷惑だからだろう。下手したら家人が駆けつけてくる。
コウヤは顔を真っ赤にして叫んだ。
「ユージーンっ! からかうなよな!」
ユージーンはぱたぱたと手を振る。
「アホ。嫌がる奴手ごめにするほど野暮じゃねーよ。お前がそこまで嫌がんなきゃな~、美味しく召し上がったところなんだが」
一秒おいて意味を理解し、青ざめる。
ユージーンはそんな様子を見てまたクックッと笑い、コウヤの頭をかきまぜた。
「お前は可愛いな」
その言葉は、とても場違いな響きで。
コウヤの耳に長く残った。
寂しげな、と、形容してもいい声音だった。
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