雲月の村を、出立する。
あんなやり取りの後もユージーンはいつもどおりの態度で、コウヤもそれを見ていると後を引くのが馬鹿らしくなってしまい、結局いつもどおりの関係に戻った。
コウヤはユージーンが好きだった。その魔法の腕は関係なしにコウヤを引きつけたし、この旅に限ったところで、場合に応じた天幕の張り方や雪の避け方、疲労がたまった時には無理せず休息をとる勇気など、ユージーンに幾度世話になったか分からないほどだ。
頼れる年長者として、コウヤのユージーンへの評価はこの旅の間にうなぎ登りで、素直に尊敬していた。
世界樹まで、やっと道のりの半分を消化したわけだが、間違いなく、コウヤだけではここまでたどり着くのも危うかっただろう。
村長がユージーンをつけたのも、今となればとても納得がいった。
そんな、一緒に旅して一日中ずっと一緒にいる相手に隔意ある態度をとるより、水に流した方がずっと楽だったのだ。
歩きながらコウヤは雲月の村人に教えてもらったものを探していた。
少し道から離れてしまうが、それだけの価値はある。
ほかほかしているからすぐわかる、と。
方位磁石および周辺を睨むようにして進む。幸い、この辺は風景を何でもかんでも覆い隠してしまう白い衣はない。
目印として教わった大岩がないか、目を皿のようにして進む。
一時間とすこし歩いたところで、コウヤは声を上げた。
「ユージーン! 待って!」
「ああ?」
「温泉! この道行ったところにあるって!」
「あ? 温泉だあ? そんなものがこんなところにあるってか?」
ユージーンは疑わしげに言いながら小道にはいり、少し歩いたところで前言撤回した。
「……あるな」
白い湯気を立てているのは、岩場に沸いた天然のお湯だった。
村人たちが建てたのだろう。木製の脱衣所と、長椅子もある。
「こんな場所、村人以外には秘密だろうに、よく教えてくれたな」
「だって俺達、春を呼ぶ使者だしさ! 聞いたら教えてくれた」
ユージーンは黙ってコウヤを見下ろし、この人たらし少年の愛嬌にタラされたに違いないと自分の経験と引き比べて深く確信した。
「入ろうよ、ユージーン!」
「あ? 当たり前だろ?」
二人で服をすべて脱ぎ、ついでに三つ編みもほどいてしまう。コウヤは脱衣所にすべての荷物を置いたが、ユージーンは手の届くところに体をふく布類を置いた。
少し熱めの湯は、体を芯から温める天上の心地よさだった。
「あ~~生き返る~~」
「だな」
湯の上に二人の髪の毛が広がり、茶と黒の複雑な網目模様をつくる。コウヤの髪も長いが、ユージーンの髪の長さは圧巻だった。
コウヤは小柄だが、筋肉はついているのでがっちりした体だ。
ユージーンは顔立ちが女性よりも整い、防寒具で着ぶくれしているため本来の体型がわからないこともあって、華奢な体つきに見られやすい。だが、こうして脱ぐとその筋肉に圧倒される。
胸板も厚く、首にも腕にもしっかり筋肉がついていた。均整のとれた体つきはコウヤより全体的に一回り大きい美丈夫だ。
髪も含めて全身の垢を落とし、さっぱりする。
二人が久しぶりの入浴に油断していたのは否めない。
ユージーンがはっとしてそちらを見たときは遅かった。
「動くな」
いきなり背後から首に腕を回された。ガッと頭を固定され、喉元に冷たい感触。
一掻きで喉笛を掻き切れる体勢だ。
コウヤは恐る恐る目だけを下にやり、予想通りのものがあることを確認する。
コウヤをとらえている相手とは違う男たちが茂みから出てきた。ふたり。一人は口鬚をはやして、もう一人は、片目に眼帯をしている。
「女? ……いや、男か」
口髭の男は一瞬ユージーンの髪と顔を見て誤解しかけたようだが、その下を見てすぐに修正する。
長い黒髪が、樹木のように広がっている。
全裸で長い髪をほどき、湯につかる彼は、一瞬女性と見間違えてもおかしくない美しさを備えていた。
コウヤの真正面にいるユージーンは、これまで見たこともない目をしていた。
冷え切った氷の刃だ。
「……そいつから手を放せ。お前らの目的は荷物だろう。くれてやる」
山賊、だ!
やっと事態を理解して、コウヤの頭は凍りついた。
足手まといになるなと事前に言われていたにもかかわらず、この始末。
人質になってしまって、どうすればこの状況から抜け出せるか。
ユージーンを女と誤解しかけた男はしげしげとユージーンを見つめる。
「ほお……女でも滅多にない麗質だな。おい! あの村にこんな奴いたか?」
眼帯をした隣の男に聞く。そいつは、雲月の村の出身らしい。
「いえ! いませんぜ! こんな奴、一度見れば忘れるはずねえ!」
「……ってことは、よそ者だな」
その声の響きにぞっとするものがコウヤの背筋を走る。
殺したって構わない―――そういう意味にしか、聞こえなかった。
「おい、お前ら」
ぞっとするほど冷たい声が割って入る。
ユージーンだった。
「そいつに傷一つでもつけてみろ。お前らがどこのどいつだろうが関係ない。家族も、仲間もすべて、必ず殺す」
コウヤはその瞬間、湯につかっていることを忘れた。
ひんやりした冷気が全身を包みこむ。
まだ湯につかっているというのに、それを忘れさせるほどの殺気だった。
山賊たちも一瞬気圧され、だがすぐ、それを取り戻すように声を張り上げる。
「……っ。だが、そこまで大切なやつの命はこっちの手の中だ」
口髭の男は温泉の周囲をぐるりと回ってユージーンの横に移動すると、膝をつき、ユージーンの顔を手に捕らえ、そちらを向かせた。
「どこの村の出身だ?」
ユージーンは短く答える。
「――明星」
「遠いな。このご時世に、どういった目的でこんなところまで旅をしてきたのかは知らんが、ここで君たちが死んでも、誰も訴える者はいない」
「……」
「弟かね? 大切な相手であることは間違いないだろう。その命は私の手の中だ。わかるな?」
コウヤは凍りついたように、それを見ていた。
あの傲慢で尊大なユージーンが、男に口づけられ、それに黙って耐えているところを。
―――自分が人質になったせいで!
焦燥で脳が焼けるかと思った。
ユージーンは性格はともかく見た目は本当にいいのだ。あの男はどうやら男もいけるようだし、このまま手ごめにされそうな気配びんびんだ。
どうしよう、そんなの嫌すぎる!
かといって自分が殺されたら世界樹が蘇らない。頭はがっちり固定されていて、みじろぎもできない。
身動きできないまま視線だけが心を反映してあちこちをさまよう。
口髭の男がユージーンから顔を上げた。口元に赤いものが見える。
「……弟くんはいいのかね?」
「馬鹿かお前ら。お前らの慰みものになって、あいつが助かるって保障あるかよ。どうせ俺もあいつも殺すんだろう。殺され損じゃねえか」
コウヤには、後ろの人間が腕に力を込めたのがわかった。目を瞑り、一秒にも満たない時間の中で覚悟を決める。
道連れにするより、いい。自分さえいなければユージーンはこんな奴らに負けるような人間じゃないのだ。
だが、いつまで経っても衝撃はやってこなかった。
「馬鹿! 何やってるとっとと逃げろ!」
叱りつけられて目を開け、まろぶように逃げ出す。
ちらと背後を見ると、先ほどまで自分の首を掻き切ろうとしていた人間は、顔面を湯につけて浮かんでいた。
「魔法使いかっ……!」
口髭の男の声。
岩場に上がり、走り出したところで眼帯の男が自分を追いかけてきた。
必死に走るがこっちは裸足、向こうの方が早い!
逃げる背に手が伸びて―――
電撃。
稲妻の音に思わず振り返ったコウヤは、口髭の男と切り結んでいたユージーンが斬られるのを見た。
銀の軌跡がユージーンの肩を割る。そのまま、袈裟掛けに血飛沫を上げた。
「ユージーン!」
叫び、訳も分からなくなって駆け寄ろうとする。
その動きが止まった。
ユージーンの剣が、口髭の男の背から刀身を見せていた。男はゆっくりと倒れる。
一度止まった足を、叱咤して動かす。
ユージーンは口髭の男と交戦していたのにコウヤが捕まりそうになったのを見て助力してくれたのだ。そして―――そして!
「ユージーン、ユージーン!」
コウヤが駆け寄った時、ユージーンは膝をつき、手を肩にあてていた。優しい金色の光がその下から漏れている。
回復魔法―――。
緊張が、溶けるように消えていくのがわかった。
傷が深く、なかなかふさがらないのか、治癒にはいつもよりずっと時間がかかった。
それでもやがてはそれも終わる。
ユージーンはどっと力を抜いた。
「……メシ」
「うん!」
コウヤはユージーンの言うままに食料を運んだ。
次から次と、食べつくしてしまうのではと懸念した食欲が収まると、血を洗い流すついでに、すっかり冷えてしまった体を温泉でもう一度温める。
それから二人は衣服を身にまとい、山賊の死体を見下ろした。
三人とも、絶命していた。
最初、コウヤをとらえていた相手は、眉間に短刀が突き刺さっている。たぶん、バネを用いた打ち出し機だ。護身用の道具として、コウヤも旅立ちの時、同じものを持たせられた。
恐らく傷は脳にまで達しているだろう。
ユージーンは体を拭く布を近くに置いていた。その下に、剣やこの打ち出し機を置いておいたのだ。山賊たちに気づいた時から、気づかれないように取り出そうとしていたのだろう。
その準備ができたから、挑発したのだ。
ユージーンに電撃を受けた男は一見無傷だが心臓が止まっている。口髭の男も、斬られた傷から多くの血を流し、こと切れていた。
ユージーンは死体を見下ろし、苦い口調で言う。
「……人を殺したのは、初めてだな」
「ユージーンのせいじゃないよ!」
目を合わせて、コウヤは力いっぱい否定した。
「ちがう。ぜったいに、ちがう! ユージーンは何も悪くない! 俺がヘマして捕まったのに二度も助けてくれた。むしろ俺のせいだよ、俺がつかまんなきゃ、ユージーンだって気絶させる程度の魔法で済んだんだ!」
拳を作り、熱弁するコウヤを、ユージーンは、奇妙な表情で、見ていた。
愛しさと、切なさと、さびしさが入り混じった顔。
「……そうだな」
ユージーンは心の屈託をそれで振り払い、現実的な処理に話を進めた。
「こいつらどうする?」
「……雲月の村まで戻って伝える?」
「たぶん、こいつらの一人は村の人間だな。以前放逐されたんだろうが。じゃなきゃここを知るはずがない。……たぶんだが……」
「なに?」
「こいつらは、湯治にきた人間を襲って、よそ者なら殺して荷を奪って、村の人間なら、何らかの手段で脅して被害を訴えられないよう、してたんだろうな。恐らく被害者から食料も持ってこさせて」
ユージーンがぼかした言葉は、コウヤにもわかった。
温泉で、異性と一緒に入る行為は、伴侶にだけ許される。ほとんどは同性同士で連れ立ってきたはずだ。
そして、温泉は衣服を脱ぐ。あの男たちが、全裸の女性を見て、どんな行動をしたか―――想像は、かたくない。
女性にとって、そういう行為がどれほど屈辱的なものか、想像するまでもない。
そして、今の時期、よそ者などほとんど来ないだろうし、雲月の村まで一時間強の距離にあるここにわざわざ食料を持って湯治にくる人間がいるとも思えない。
脅して、食料を持ってこさせるしかないのだ。
もし湯治にきたのが屈強な男の集団なら、その時は何もしないで見送ればいいだけだった。
コウヤは被害者たちの想いに思いをはせる。さぞ、恨めしかったろう。
「……ねえ、俺にここのこと教えてくれた人たち、こいつらのこと、承知の上だったのかな?」
ここのことを教えてくれた、気のいい男の顔が思い浮かぶ。罠にかけようとしたなんて、思いたくないけれど。
ユージーンは軽い口調で否定した。
「そりゃねーだろ」
「言いきれるんだ?」
「俺らがただのよそ者ならともかく、春を呼ぶ使者、だぞ? それを殺そうとするやつがどこにいるよ?」
そういえばそうだった。
春を待ち望むのは皆同じだ。自分たちが死ねば春が来なくなるというのに、こんな山賊の餌に差し出す人間がどこにいる?
コウヤはほっとする。
「ありがとう、ユージーン。考えてみればそうだよな」
あの男は、山賊がこの温泉を根城にしているとはつゆしらず、親切心で教えてくれたに違いない。そう思うと心が軽くなった。
そのとき、ぽんと頭に手が置かれた。
「お前が無事で、よかった」
「……うん」
胃の腑の奥の、氷の塊が解けるのを感じた。
怖かった。一度はここで死ぬと本気で覚悟した。
でも、一番怖かったのは、自分のせいでユージーンが死ぬと思ったときだった。
融解した氷が、目から水になって流れ出てきた。
「あーあ。泣くなよ」
笑みを含んだ優しい口調で、ユージーンはコウヤの頭を撫でる。
「ご……っ、めん……」
どうしようもなく、震えが止まらない。あと少しで、首を掻き切られてこいつらと同じような死体になるところだったのだと思うと、ユージーンを殺してしまうところだったのだと思うと、恐怖が今になって全身を鋭い鉤爪でつかんで離さなかった。
「怖かった……」
「ああ」
「俺のっ、せいでユージーンが、ひどい目にあうかと思ったら、怖くて怖くて……っ」
一拍の間の後、返事が返る。
「……ああ」
「ごめん、ユージーン! 迷惑掛けてごめん! 大怪我させてごめん! ごめん!」
コウヤの頭を、ユージーンはいつまでも撫でていてくれた。
◆ ◆ ◆
数分して気持ちが落ち着くと、お礼を言おうとコウヤは顔を上げ―――ユージーンの顔色の悪さに気づく。
「ユージーン!? どうしたのっ!?」
「……大声出すな。雲月の村まで戻るぞ」
「な、なんで……? その顔色……」
土気色で、額には数粒の脂汗が浮かんでいた。
「傷口はふさいだが、悪い病神(やまいがみ)が入り込んだんだろう。旅はいったん中断だ。戻るぞ」
世界には悪い病神が満ちていて、それらは虎視眈々と自分たちの体に入り込む隙を狙っている。
疲れた時や怪我をした時は、それらが体に入り込む絶好の機会だった。
「ユージーン……」
「ばか。死にそうな顔すんな」
しんどそうに、息をつく。
「戻って、宿借りて何日か休めば、大丈夫だ」
けれども戻る一時間強の道のりで、ユージーンの様子はどんどん悪化して行った。
最後には一人では歩けないほどで、荒い息と、きつくしかめられた顔、流れ落ちる滝のような汗、コウヤに預けられた重みが、ユージーンの味わっている苦痛をコウヤに教える。
早く。早く戻って休ませないと。
一時間の道のりは、その数倍の質量でコウヤを痛めつけた。
コウヤは自分よりずっと長身の男の肩を支え、歯をくいしばって歩きとおし、雲月の村に着くと転がるように駆け込んで、救いを求めた。
三時間余りが経過していた。
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