……コウヤが泣いている。その声が聞こえる。
あのクソガキ、今度は何しやがった。
お前は泣いてるよか、笑って減らず口を叩いている方がずっといいんだからいつも馬鹿みたいにへらへらしてろ。
ユージーンにとって、コウヤは側にいるだけで心地よく、ホッとできる相手だった。
仔鹿の瞳、くるくる変わる表情、嘘のないことば。
お世辞もおべんちゃらも一切なく、ユージーンをこれっぽっちも恐れない。コウヤが何かを言ったら、それは心底からの言葉なのだ。
おだてるために褒めるとか、次期村長の機嫌をとろうとか、そういうことを一切考えない。
ユージーンがいくら強力な魔法を使ってみせても、すごいと目を輝かせるだけで恐れない。
『あのとき』、村人全員が恐れおののいていたとき、コウヤだけがいつもどおりにユージーンに駆け寄った。
かつて、「その言葉」を口にした女たちは、一人の例外もなく全員がユージーンを恐れの混じった瞳で見た。
元よりそんな言葉を信じてはいなかったが、さすがに呆れた。
―――愛してる?
それはなんだ? ただの耳にいい飾り言葉か。
その言葉を口にされるたび、ユージーンは冷めた。
何十ではきかないほど、何百の単位でその言葉を言われているにもかかわらず、ユージーンの心にその言葉が届いたことは、一度もない。
どうせ女たちは、ユージーン以外にも股を開く。その時にも同じことを相手に言っているに違いないのだ。
ずいぶん安っぽく、軽々しく使われている言葉。それは駆け引きの道具ですらある。
人のことを化け物みたいに見やがって。お前らに使えない力を使える俺が怖いか。その気になればこんな村一つ滅ぼせる俺が怖いか。
お前らが陰で俺のことをどう言っているのか、気づかないほど俺が馬鹿だと思っているのか!
お前らが俺を嫌っているのなんざ、百も承知だ。
俺もお前らなんざキライだ。
人のことを陰で化け物だなんだと言いながら、困った時や都合の悪いときだけ人に頼りやがって、お前らなんざ知るか! 餓死しようが凍死しようが知ったことか!
人付き合いが悪いだと? 傲慢で自分勝手だと?
馬鹿言え。人のことを陰で罵倒するてめえらに力を貸してやっている自分のお人好し具合には、自分でわらっちまうぜ!
小さな村では誰もが顔見知りで、誰もが相手のことをよく知っているものだ。生まれた時から一緒にいて、一緒に育ってきた。時間が作り上げた愛着は、ユージーンにもある。……だから! だから力を貸してやってきたのだ。
それに……村の外へ出て、どこにいくあてもなかったせいも、外へ出ていく勇気がなかったせいも、ある。
両親ですら、ユージーンを恐れた。祖母は恐れる気配がなかったが、逆に何を考えているのかわからなかった。
例外は、コウヤだけだった。
だからユージーンは、コウヤの側にいるのが好きだった。身構える必要がないから。
屈託のない笑顔。
コウヤの減らず口に怒って笑って―――笑い合っていたあの時間が、自分にとって、どれほど大切なものだったか、こうなってから気づくなんて。
気に入っている、ただそれだけだと思っていたのに、この期に及んでもまだ迷う。見捨てられない。逃げられない。ああくそっ。迷ってる。そのこと自体が、ユージーンにその事実を突き付ける。
見たくないと、目を背けているそれを、心の奥底ではとうにわかっているのだ、自分だって!
ああ、くそばばあ。
いっそ見事だとほめてやる。
俺の気持ちも、あいつの気持ちも、性格も、すべて読んだ上で仕組んだ。
よりによって、よりによって、よりによってあいつを生贄に選ぶなんて!
……いや、選りに選ったから、あいつに、したんだろう。
全く見事だな、クソばばあ。
何を考えてるかも、どんなたくらみかも、すべて判っているし読めているのに逃げられない。
ユージーンは、逃げられない。
コウヤを置いて、逃げることが、できない―――……。
ユージーンは喘いだ。
喉が、乾く。ひびわれ、血を吹きそうなほどだった。
そのとき唇を割って入ってきたほのかに甘い液体は、豊潤な香りとその甘さで喉の痛みを瞬く間に癒した。
ユージーンは、目を開けた。
◆
「具合はいかがですか?」
村長の妻だという女性に問いかけられ、ユージーンの枕元についていたコウヤは顔を上げた。
「……うん、ちょっと熱が下がってきたと思う」
村に倒れこむようにたどり着いてから、丸一日がたつ。
その間コウヤはつききりで看病していた。
村長が客間の一室を開放してくれて、そこにユージーンを寝かせることができ、薬師も手配してくれた。
まだ、ユージーンは目を覚ましていない。高熱を出し、うなされるばかりだ。
ほどかれたままの長い黒髪は寝台からはみ出し、垂れて、床につく前に途切れている。頬は紅潮し、薄開きの唇からは燃えるように熱い吐息が漏れた。
コウヤはあの山賊についても村人に話し、村の人間は確認しに行ったようだった。
山賊たちのねぐらも見つけ、そこの物資を収用したようだが、興味はない。
だが、山賊の被害者は、ふたりに感謝しているようだった。
ありがとうというメッセージなのか、ひそかに、貴重な山菜が入った籠が部屋の入口に届けられていたこともある。
……被害にあったことは、言えることではないのだろう。だから直接のお礼は言えずとも、こんな形で感謝を示したのだ。
「どうぞ。お食事をお持ちしました」
「あ、でも、俺……」
四十がらみの柔和な笑顔が印象的な女性は、やんわりとたしなめる。
「あなたが倒れては何にもなりませんよ。病に倒れた方の看病で一番怖いのは看病疲れで共倒れになることです。この方も、それを望んではいらっしゃらないでしょう」
コウヤはこの年代の女性に弱い。母のように思えてしまうのだ。
「……はい」
大人しく頷いて、食事の盆を受け取る。
この時期、食事を残すような真似が出来る人間はいない。
コウヤも、もそもそと食べた。
牛乳からできる乳製品が盛り込まれた料理。ユージーンと一緒に食べた、あの美味しい食事と一緒の献立だというのに、少しも美味しいと思えなかった。
半分ほど口をつけたところで、コウヤは、ユージーンの体を冷やす濡れ布巾を交換する。
ユージーンが死んでしまったらどうしよう。何度も考えた最悪の可能性を考える。
……自分は、それでも旅を止めることは許されない。ここまで辿ってきた村々の、狂おしいほどの願いを背負った身だ。
嘆き悲しみ、気持ちが折れることは、できない。
旅の途中で果てることは許されても、投げ出すことは許されていないのだ。この食事も、待遇も、それと引き換えの対価なのだと、コウヤは理解していた。
「……み……ず」
コウヤははっとしてユージーンを見た。水差しを振ると、中は空になっている。
一秒も迷わなかった。
今食べていた献立の中の水分を口に含むと、口うつしで飲ませた。
ユージーンの喉が鳴る。
「……う……」
二三度、軽く頭を振り。ユージーンは目を開けた。
「ユージーン!」
焦点の合わない目が、コウヤを見る。
その目と目があったとたん、堰が切れた。
「ごめん! ごめん、ごめん、ごめん、ごめんなさい……! 俺のせいで、怪我させちゃって、ごめん……!」
コウヤはユージーンの手を握り、何度も、何度も、何度も、その言葉を繰り返す。
体の中はそれで一杯になってしまったようだった。それ以外の言葉が、どこを探しても、なくて。
いつまでも続く謝罪を遮ったのは、素っ気ない声だった。
「……馬鹿。……お前は、そんな顔せず、いつもみたいに、俺の隣で、減らず口叩いていれば、いいんだよ」
ユージーンは、それだけ言うと、また、目を閉じた。
呼吸が深くなる。眠ってしまったようだった。
コウヤは額に手を当て、熱が下がってきていることを確認すると、安堵の息を漏らした。
◆ ◆ ◆
ユージーンが立ち上がれるようになるまで回復したのは二日後で、寝台から離れようとする患者に薬師がもう一日の休養を言い渡した。
寝台にいる間、旺盛な食欲で三度三度の食事をきっちりとった病人は回復も早かった。
薬師から出発の許可が出た日。
ユージーンは久方ぶりに髪を三つ編みにし、防寒具と外套をまとった万全の旅装で、村長とその妻に出立の挨拶とお礼を述べた。
「いろいろと、お世話になりました。なんとお礼を申し上げればいいか、わからないほどです。皆さまは私の命の恩人です。ほんとうに、言葉では言い尽くせないほど、お世話になりました」
ユージーンがそうやってきちんとした姿をしたところは、凛として堂々たるもので、華やかさも備わっている。
病で熱にうなされていた姿との落差もあり、見惚れる凛々しさだった。
一瞬の沈黙の後、村長は言う。
「……いいえ。いいのです。こちらとしてもあんなところにあんな連中が巣食っていたとは夢にも思わず……。長として至らぬと言われれば返す言葉もありません。まして、春を呼ぶ使者たるユージーン殿を危うく落命させてしまうところだったとなっては、お礼などととんでもない。こちらの失態で、取り返しのつかないことになるところでした。お許しください」
「わたくしからもお礼を申し上げます。あのような者がいるとは想像もせず、被害を出してしまいました。何人も、言うに言えず苦しみぬいた者がいるかと思いますが、村人の誰がそうなのか、調べる気はありません。元凶は死んだのです。それで、すべてよしとするつもりです。災いを取り除いて下さり、本当にありがとうございました」
心のこもったお礼とともに雲月の村を立ち去る。しばらく歩いたところで、切り出した。
「ユージーン。ありがとう。それと、ごめんなさい。足、引っ張って、ごめん……」
目と目を合わせてお礼を言い、言い終わって、顔を伏せる。
どれほど厳しい言葉も、甘んじて受け入れようと心に決めていた。
コウヤのせいで、ユージーンは死んでしまうところだったのだ。お前なんかと一緒に旅ができるかと言われて置き捨てられても文句は言えない。
ユージーンが、片眉を上げる。
緊張して返答をまつコウヤの眼前に手を差し出し―――
「バーカ」
冷めた眼差しで、デコピンした。
その声の素っ気なさに、怯んでしまう。妙に耳に残る言葉だった。
しかも、ユージーンはすたすたと先を行ってしまった。コウヤは慌てて追いかける。背中の荷物がゆさゆさと揺れた。
荷物の食料は、半分以上、魔法を使用した反動で食べてしまった。致命傷を癒やすほどの回復魔法は、大量の食料を消費した。
多少は雲月の村から援助をもらったものの、これからの道行きは村々に食料を分けてもらいながらになる。
ユージーンは、二歩ほど後ろを歩いているコウヤを見て、やや歩く速度を落とした。
あの時の返答がすべてだ。
―――馬鹿。お前は、そんな顔せず、いつもみたいに、俺の隣で、減らず口叩いていれば、いいんだよ。
コウヤは、笑っているのがいい。怒ったりわめいたり、くるくる変わる元気な表情をしていてこそ、コウヤだ。
コウヤは知らないだろう。自分が、村人とユージーンのかけ橋となっていたことなど。
恐れを知らないコウヤがユージーンとかわすやりとりは、村人にユージーンへの親しみやすさを起こさせ、感情的な溝を埋めた。
村長として必須な、村への愛情。
それを与えてくれたのは、この、どこにでもいる平凡な少年だった。
コウヤがいたからこそ、ユージーンはあの村で耐えられた。コウヤがいるからこそ、村を守ろうという気になれた。
以前はどこにも行く場所がないからという嫌々ながらの選択に、自分の意思が加わった。
コウヤがいたから、ユージーンは生きていけたのだ。誰もが自分を罵りながら自分の力をあてにする、あの村で。
胸に満ちる思いを、言葉にするのは簡単だ。だが、ユージーンはそれを拒む。
ユージーンにも、意地がある。
祖母の描いた図案どおりに、これまで自分は動かされている。けれども、これから先はわからないのだ。ユージーンが、認めない限り。
ユージーンは自分の思いを認めたくない。認めれば、ユージーンは祖母の姦計にはまる。
コウヤはそれを知らない。知らないから、オルウへの感情をただの感情的な行き違いだと考えている。
誰もが春を待ち望んでいる。―――だが、誰が知るだろう?
春を呼ぶために苗床になるこの少年こそ、ユージーンにとっての春なのだと。
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