旅を始めて早三月以上がたつが、全身に筋肉がついた気がする。
食料は、重い。
矛盾しているし、ワガママなのも重々承知しているのだが、やはり重い荷物を背負い、毎日朝から晩までひたすら歩きづめに歩いていると、重さがこたえた。
旅が進み、食料が減ってくると、不安とともにほっとしてしまう。矛盾しているが、それが偽らざる本心だった。
次の恒星の村まで行く途中、川にかかる橋を渡った。
「おい、見ろよ」
顔を上げると、七色の色彩が目に張った。
赤橙黄緑青藍紫(せきとうこうりょくせいらんし)―――。
川にかかる虹は、その鮮やかさでコウヤの心を打った。
川の幅は大人の身長ほどで、小川とはいわないが、大河ともいいがたい。
川は岩場が多く、アップダウンの激しい急流で、その水しぶきが虹を作り出していた。
冬は、色彩が乏しい季節だ。木々は葉をおとすか、村人に落とされるかで、地面は雪の白か、濃い茶色か、灰に近い色だ。
鮮やかな色彩は女性の衣服ぐらいだったが、日ごと暗くなる村の雰囲気を反映してか、彼女たちもそういった目に美しい衣装を控え、地味な色合いのものばかり着るようになった。
虹を見るうち、こみ上げてきたものを、ぐっとこらえる。
「ユージーン、行こう」
声をかけ、歩きだす。
今見た感動が心の中に息づいて、内側から力をくれる。
顔を上げ、自制していた世界樹の方向へ視線をやる。
茶色い塊としかわからなかったものは、もう、樹だと判る距離にまで近づいていた。
これまでの道のりより、これから先の道のりの方が、ずっと短い。
◆ ◆ ◆
もう何十度、野宿の晩を過ごしただろうか。
コウヤはすっかり慣れた手つきで天幕を張る。
食料を荷物から取り出してかじっていると、ユージーンが声をかけた。
「次の恒星の村ってどんな村だ?」
「んー、水月の村って、例によって、村同士の交流が絶えて久しいからよくわからないんだけど」
コウヤは旅をしているのでよく判るのだが、村から村へ旅立つ使者は、生産活動を何一つできない。それでいて、往復分の食料を、出発時に必要とするのだ。
片道十日としたら、二十日分。しかも、ぴったり二十日分では危なくて仕方がない。
雪に降られて数日脱出できなかったらたちまちのうちに食料がつきるし、不慮の事故にも対応できない。また、歩き続けのため、消費する熱量も村にいるときとはケタが違う。村では丸一日絶食もよくあることだが、旅をしているとき、一日でも食料が足りないと、露骨に歩く速さが落ちるのだ。
それだけの食料を一度にねん出し、使者に持たせる。しかも、人数分。
冬になり、ほとんどの村が没交渉になったのは当然だった。
六番目の流星の村は滅んでいた。ではオルウの手紙はどうやってその次の水月の村に渡ったかと言えば、五番目の雲月の村からの使者が、水月まで遠路はるばる旅をしたのだ。
出発時に持った帰路の分の食料で食いつないで。
神経がすり減る思いだっただろう。ようやく水月の村に着いた時は、救われた気分だったに違いない。
「冬になる前はさ、近くに炭鉱があって石炭がよく採れたから、硝子工芸で有名だったみたいだよ」
「ああ、そうか。うっすら憶えてる。あれが恒星の村か」
ユージーンは冬になる前に一度、世界樹まで旅をしている。十年以上昔のことで、よく憶えていないそうだが。
「硝子は、燃料が大量に必要だからな。石炭とかが近くにねーと、できない。……まあうちはその代わりに銀山があったんだが……」
―――だが、その銀山はオルウが私物化してしまったので、村人は恩恵にこうむれなかった。
ユージーンは頭を振って屈託を振り払うと、話を元に戻した。
「あそこの硝子は見事だったぜ。水みてーに透明で。あんなの他じゃねえから、あの村の特産品でな。……職人が死んでなきゃいいけどな」
「―――うん」
人こそが技術を蓄え、技術を次へとつなげる。
長年の伝統も、千年かけて磨かれた秘伝の技も、人が死んでしまえばあっけなく絶える。
春になっても、絶えた技術は取り戻せない。
そして、冬になってからの五年は、人が死ぬには十分な時間だった。
「寝るぞー、来い」
「うん」
ユージーンと寝るのも、とうになれた。
寄り添いあって眠る夜、コウヤはユージーンより先に目が覚めたとき、その寝顔に見入ることがよくある。
数日後、二人は恒星の村に入った。
◆ ◆ ◆
滅多にないことだが、ユージーンは言葉を失ってそれを見ていた。
コウヤもそんなユージーンの態度に驚くどころではない。同じようにそれを見て、ぽかんと大口を開けていたのだから。
「こちらで、野菜を栽培しております」
自信満々に、村長が指し示したものは、それだけの価値はあった。
そこにあったのは、最高級の透明硝子をふんだんに使用した、家だった。
扉も屋根も壁もすべて硝子。
その中では、野菜がすくすくと育っていた。
どこの村でも、畑は現在忘れさられているか、他の目的に使用されているというのに。
「ひとつ作るのに相当な費用がかかりますが、工房はどうせ注文がなく暇ですからな。職人の腕を鈍らせず、透明な板硝子の技術を絶やさず、かつ食料が生産できる。八方丸くおさまる良策と思っております」
ユージーンは声を絞り出した。
「……素晴らしい」
本音と分かる感嘆に、村長はいたく機嫌を良くしたようで、笑みが深くなる。
コウヤもまったく同感だった。
冬の乏しい日光と、厳しい寒さをこの透明な板硝子の家は解決し、その懐で大切な食料を生産している。
「硝子同士の接合には、何を使っていますか?」
「おおむね、鉄ですな。いろいろ試行錯誤してみましたが、陶器では耐久性に問題があり、硝子を支えることができんのです。鉄は農具を溶かして使用しております。あちらは木でも代用できますからな」
ひとしきり感心しながら村長の話を聞き、おおいに持ち上げてから、食事の席へと移った。
食事は期待したとおりの豊かなもので、コウヤは久しぶりに満腹にまで詰め込む。
夜になり、あてがわれた部屋に引き揚げるとコウヤは興奮冷めやらぬ様子でユージーンに話しかけた。
「ねえあの硝子の家、明星の里でもできないかな!?」
ユージーンは考え込んだが、やがて首を振る。
「むりだろ。たぶん」
「え? なんで?」
「硝子ってのは、小石ひとつ投げただけで割れる。おまけに重い。お前と俺がたどってきたあの道のりを考えてみろ。……あの道を、そんな脆くて重いものを持って運べるか?」
「う……で、でも馬とかさ」
「そして、これが肝心だが、あれだけ透明度の高い板硝子って、いくらになると思う?」
「……高いの?」
「すげー高い。そうだな、あの板硝子一枚で、金貨五枚はする。それが一軒につき四十枚以上組み合わさってただろう? 生産地でかつ、食料最優先でなきゃ、あれはできねーよ」
貨幣制度は冬がきてガタガタになったが、その頃の単位でユージーンは言う。
今の貨幣は、食料だ。食料が何より強い。
食料で物々交換は可能だろうが、その食料がそもそもない。
「大体、必要ねーだろ? 俺たちが世界樹に行けば、春が来るんだからな」
あれだけ反対していたユージーンのこの言葉に少し意外に思ったが、きっと意識の変化の変化があったのだろう。
ユージーンも、コウヤと同じものを見る旅をしてきたのだから。
恒星の村は自力で野菜が栽培できるため、かなり豊かな村だ。
おかげで、食料の援助を願っても、すんなり承知してもらえた。
もらった食料で再び荷物をぱんぱんにすると、翌朝、二人は出立した。
◆ ◆ ◆
次の、峡月(きょうげつ)の村までの道は緩やかな下り坂が多かった。
上りの道もあるが、長くは続かず、すぐ下りに変わる。
「世界樹は、世界のへそにあるからな。周辺はすこし窪んでんだ。窪地の斜面をこうぐねぐね曲がりながら下りていく感じだな」
手持ちの地図にはない高さの概念にコウヤは頷く。
緩やかな下り坂は、平坦な道や上りよりずっと体が楽だ。
下り坂を下っていると、気分が浮き上がってくるのを感じる。
あと少しで、世界樹につく。
次で九番目。
十番目の村は世界樹のふもとにあるから、実質、次で最後のようなものだ。
そう思うと体が軽い。
弾むように進むコウヤを、ユージーンは複雑な顔で見ていた。
数日後、たどり着いた峡月の村は、ふたりを恭しく迎えた。
世界樹の隣の村である。ふたりが世界樹にたどり着けば春になるということを、強い実感を持って感じているのだろう。
これまでの村は世界樹にたどり着けば、といっても世界樹までの道のりは遠く険しい。どれぐらいでたどり着くのか不明では、ピンとこないのが普通だ。
だが、ここから、世界樹のふもとにある最後の村までは、十日ほどで着く。
あと十日で春になるのだと思えば、重みが違った。
そしてそれは、村人にとってだけではなかった。
◆ ◆ ◆
夕食が終わった後、ユージーンは部屋に戻ってこなかった。
コウヤは部屋でしばらく待ってから、腰を上げる。
部屋を出て、行き合った家人に村を見下ろせる場所はないかと聞くと、村の西にある小高い丘を教えてくれた。
戻って部屋を覗けば、ユージーンの外套は掛けられたままだ。これなしで外は寒いだろうと、自分の分の外套を羽織り、ユージーンのものは手に持って、丘へ行く。
いるかどうか判らなかったが、果たしてユージーンはいた。
丘に座り、夜空を眺めている。
暗いので輪郭程度しか分からないが、その黒々と長い三つ編みは、間違えようもない。
表情は見えないが、寂しそうで、コウヤは胸を突かれる思いだった。
理由なんて、わざわざ聞くまでもない。
コウヤは黙ってユージーンの肩に外套をかけ、その隣に座る。
触れあった肩から、ユージーンの体温が伝わってくる。その思いまでも感じ取れそうだった。
しん、と冷えた冬の夜の大気が、体温を奪っていく。
風は、震えがきそうなほど冷たい。
こんな場所で、外套もなしに、ユージーンはいたのだ。
ユージーンと同じように、空を見上げた。空は、満天の星が輝いていた。
ユージーンが、ぽつりと言った。
「……コウヤ」
「うん」
真面目に、コウヤは頷いた。
滅多に、ユージーンはコウヤの名を呼ばない。
おまえ、とか、ガキとかそんな風に言う。
人によっては無礼だというだろうが、コウヤは気にしたことがなかった。元々大雑把、もとい大らかな性格だし、ユージーンにそう呼ばれるときには、馬鹿にされるような、不快な響きは何一つなかったから。誰だって、そういうことはわかるのだ。
「―――どうして、お前は、自分の命を簡単に捨てられるんだ?」
責めている口調ではなかった。
苦渋にみち、悩みぬいた人間の声だった。
だから、コウヤも真面目に答えた。
「お願いします、って言われるたび、命を削って差し出された食料を受け取るたび、託された想いが、あるから」
食料は、比喩ではなく、命を削って差し出されるものだ。
一カ月の食料は、一か月分の命を削る。一カ月、餓死が早くなるのと同義だった。
最初は気づかなかった。気にしなかった。けれど、飢えた村が差し出す食料が、どんな負担で差し出されたのか考えたら、気づかずにいられなかった。
狂気に近い、願い。
春が来てほしい。春を呼んでほしい。一日でも早く。
春が来ても、すぐに元通りにはならない。食料が畑で生産されるのに、しばらくかかる。
自分たちに食料を渡したせいで、これまで通り過ぎてきた村で、どれほど餓死者が出るだろう。
それを覚悟で、渡されたものだ。
お願いしますと、血の涙とともに託されたもの。
その気持ちを、コウヤは踏みにじれない。
人を屁とも思わない悪党なら、そんな血を吐くような気持ちで渡されたものだけを受け取り、その気持ちを笑って投げ捨てられるかもしれない。でも、コウヤにはできない。
……ユージーンにも、できないだろう。
「あと、春が見たいんだ」
ユージーンはコウヤに顔を向けた。
「……お前は見れないんだぞ?」
コウヤは笑って言う。
「でも、ユージーンは見るだろ? 明星の村のみんなが見る。ユージーンもオルウ様もジャシム様も見る。これまで通り過ぎてきた村のみんなが見る。俺の大好きなみんなが、それを見る」
迷いは心から飛び去って、幸せな思いがあふれる。
「俺の大切なみんなが春を見れば、それは俺が見るのと、同じだよ。俺はそう思う。だって、大切なみんながつらい思いをしていれば、俺もつらい」
旅をしている最中、どんどんユージーンが好きになった。両親が死んでしまった今、たぶん一番好きな人はと聞かれたら、ユージーンと言う。
「だから、大切なみんなが幸せなら、俺も幸せなんだ。特に、ユージーンが幸せなら」
「俺、か?」
表情は見えないが、まるで迷子の子どものように戸惑った声。
「うん。俺、ユージーンがいたからここまでこれた。ユージーンに連れてきてもらった。ユージーンと一緒に旅ができてよかった。ユージーンのこと、すごく尊敬してるしすごく好きになれたから。そんなユージーンが、つらいなら俺もつらい。幸せなら、俺も幸せ。―――以前、ユージーンが誘ったけど」
隣の気配が緊張したのがわかった。
コウヤは夜空を見上げながら、言う。
「あそこで頷いても、ユージーンはきっとつらくて。俺もそれを見ていたらつらくて。ふたりでつらいと思う」
しばらく待ったが、ユージーンは、何も答えなかった。
コウヤは尻を払って立ち上がる。
自分を心配してくれる人。
コウヤが犠牲になれば春になると知っていて、それでも反対してくれる人。
そんな人、他にいない。
大好きだった。
「ユージーン、憶えてて。俺が春を呼んで、ユージーンが幸せになったら、俺も幸せなんだ。俺のこと、心配してくれてありがとう。でも、それに囚われないで。可愛い女の子を見つけて、結婚して、子どもを作って幸せになって。俺は、ユージーンがつらかったらつらいし、幸せだったら幸せだから」
ぎゅっと正面からユージーンの体を抱きしめて告げる。
「大好きだよ、ユージーンのこと」
コウヤは立ち上がると、自分の分の外套も脱いでユージーンにかけた。
「さき、戻ってる」
コウヤが立ち去った後、ユージーンはコウヤの匂いがする外套に袖を通し、抱きしめた。
逃げていた自分の気持ちと向き合う。
安っぽく使われるその言葉は大嫌いだ。だが、それでも、その言葉以外で形容できない思いもあるのだと、初めて知った。
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