帰りの道は、日一日、深まる春を実感し、夏の入口にさしかかりながらの旅だった。
長星、峡月、恒星、水月、流星、雲月、浦月、嵐月、銀月。
行きに通り過ぎてきた村を、再び通る。
その、どの村でも人々の顔は喜びあふれ、コウヤは最上級の賓客として、もてなされた。
ユージーンはいなくなったが、長星の村の長が護衛をつけてくれたおかげでつつがなく旅ができた。
人が元通りの暮らしに戻るには何年もかかるだろう。
だが、頑張れるはずだ。
もう、終わることのない冬は終わったのだから。
コウヤは明星の村にたどり着くとここまで送ってくれた護衛の人間と別れ、まっすぐオルウの家へむかった。
途中、はちきれんばかりの笑顔でねぎらいの言葉をかけてくれる旧知の村人に返事をする気になれず、素通りする。
すでに夏に季節は移っている。
天幕は片づけられ、石造りの家で皆が暮らしていた。オルウも例外ではない。
入口での二三のやりとりのあと、コウヤは招き入れられた。
「―――オルウ様。コウヤ、ただいま、戻りました」
正座をし、両手を床にまっすぐ伸ばし、頭を深く下げる。長へ対する、正式な挨拶。
その場には、他に誰もいない。オルウが下がらせた。
オルウは、数秒の間、黙ってコウヤを見つめていた。
「―――戻ったね。あの子は、世界樹の、苗床になったんだね」
「……はい」
終わってから振り返れば、よくわかる。
オルウの策の、何と巧妙で残酷なことか。
ユージーンは、ただ行けと言っても、行かないだろう。行きますと言って、どこかに姿をくらませただろう。
だから、コウヤに命じたのだ。
危険な道中、ユージーンはコウヤを置き去りにすることはできないし、世界樹の苗床になると決めたコウヤは説得を聞き入れない。
かといって、黙ってそのまますべてを見守ることは論外だ。
何よりもコウヤを愛しいと思うユージーンには、コウヤの身代わりになるしか道はなかったのだ。
ユージーンは、どれほど苦しみ、悩んだ末にその道を選んだのだろう。
コウヤは強く拳を握りしめる。
「……オルウ様は、ユージーンが、憎かったのですか……?」
ふう、と、オルウがため息を吐く音が響いた。
「―――たったひとりの、孫だよ。憎いわけがあるもんかい。この世で唯一私の血を受け継ぐ者さ。だがね、長というのは、そういう務めだよ。民の中にただ一人犠牲が必要なら、その一人は長がなるのが唯一正しい答えだ」
だが、オルウは、贄にはなれない体だった。
だから、代わりに、最愛の者を差し出したのだ。
コウヤは、唇をかみしめる。オルウの言うことは理屈としては絶対的に、正しい。
オルウとて、孫はかわいい。まして、ユージーンは唯一の血縁だ。断腸の思いだったろう。
だが、村のため、世界のために、自らの家族を捧げたのだ。
コウヤはそれに感謝しなければならないかもしれない。
だが、感情がそれを拒む。ユージーンの言葉、笑顔、仕草、その一つ一つが蘇り、胸を締め付けるのだ。
「……オルウ様は、一体どこで世界樹の秘密を?」
「なあに……あんたたちは道楽に大金をつぎ込んでと思っていたかもしれないが、古い書物には、先人の知恵が宿っているもんさ」
はっとして、コウヤは顔を上げた。
オルウは、銀山から上がった収益の大半を、書籍に注ぎ込んだ。魔法書ならばまだともかく、そうでないものも数多くあり、村人たちからの非難の種となっていた。
「時の流れってのは果てしないもんさ。世界樹の老衰は、うちらや、うちらの父や、その祖父にとってみれば初耳かもしれない。だが、長い時間の流れの中で今回が初めてなんてことがあるもんかね。きっと、大昔にはおんなじことが起きて、そして何らかの方法で解決したにちがいないのさ」
「オルウ様……」
オルウの散財を道楽とばかり考えていた自分が恥ずかしかった。
誰もが未曾有の天災と考えていた時に、オルウはまったく逆のことを考えていたのだ。
あのユージーンが、オルウのことだけは尊敬していたのも頷ける。
オルウは、偉大な長だった。
子どもを流された夫婦はオルウを恨んだが、冬が長く続くにつれ、諦めをつけるようになった。
その決断があったからこそ、明星の村は、一人の餓死者もなく、今日を迎えられたのだ。
子どもたちが生まれていたら、恐らく餓死者が出ていた。それは、子どもだった可能性が高い。
銀山を独り占めにしたのだって、そのおかげで世界樹を蘇らせる方法をしるした書物が手に入ったことを思えば、コウヤはオルウを責められない。
村人は書籍を買うのに反対し、食料を買えというだろう。だから、オルウは強欲の汚名を着ても、銀山からの収益をひとりじめにしたのだ。
そして、そのおかげで、世界樹を蘇らせる方法は手に入った。
世界を救ったのは、ユージーンだ。だがその手配をしたのはオルウだ。
すべて、オルウの采配の賜物だった。
コウヤはオルウに感謝すべきだ。わかっている。……でも!
「……ユージーンは……俺の目の前で…消えて……、俺に…愛していると……」
思いだすだけで、心が血の涙を流す。
目の前で、ユージーンの体は消えて。
ユージーンは、コウヤに、愛していると、そう言ったのだ。
「……そうかい。あの子は、お前にちゃんと言ったのかい」
涙をいっぱいにためて、コウヤは頷く。
「オルウ様。ユージーンを、ユージーンを生き返らせる方法はありませんか!? どんなことでもします。俺の命を今度こそ使ったっていい!」
そのか細い糸を頼りに、コウヤはその希望だけを胸に抱いて、戻ってきたのだ。
オルウは沈黙の後、ぼそりと言う。
「そんな方法があったら、一年も迷わないと思わないかい?」
コウヤはがくりと首を折る。
「それにだ。ユージーンは、本当に、あんたを愛おしんでいたよ。そのユージーンが、あんたの犠牲で蘇ることをよしとすると思うのかい?」
ぱたぱたと、床に雫が落ちる。
わかっている。
ユージーンは、こんな自分を、大切に思ってくれた。
その彼が願ったのは、犠牲にとらわれることじゃない。
幸せになることだ。
コウヤが幸せになって、結婚して、子どもを作って、笑って人生を過ごしてから、ゆっくり眠ることだ。
ユージーンは、ちゃんと、そう、言葉を遺してくれたのに、コウヤはまだ、四か月もの間、馬鹿な希望にしがみついていた。
「あんた、ユージーンを……?」
コウヤは俯いたまま頷く。
愛している。―――うん。俺も。
……その言葉を返せる日は、永遠に来ない。
静かにコウヤを見下ろしていたオルウが、唇を開いた。
「―――私の子どもになるかい?」
「え?」
「ユージーンが、自分の命よりも愛したお前。春を呼ぶ使者の大役を果たしたお前が、今、村で一番次の長に相応しい人間だ。村の皆も、お前なら納得するだろう」
コウヤの両親はとうに亡い。
オルウの養子になっても、不都合はなかった。
「でも、俺なんかが……」
「自分を卑下するのはおやめ」
ぴしゃりとオルウは言った。
「ユージーンが、私の自慢の孫息子が、命を捨てて守ったあんたがそんな風に自分をいっちゃあ、ユージーンの立つ瀬がないよ」
「……はい」
「で、どうする? 言っておくが、次期長の教育は、楽じゃないよ。泣き言は認めない。それでいいなら、ユージーンの後を継ぐかい?」
オルウがコウヤを見下ろす。
そうしてみると、オルウの目元が、ユージーンにそっくりなことに気づかされる。
世界を救った偉大な首長。
ユージーンは、コウヤがいつまでも嘆き悲しむことを、望まないだろう。前を向いて、歩いていくことを望むはずだ。コウヤの明るさと強さを、ユージーンは愛しんでくれたのだから。
命は、生き返らない。
だが、想いは次の世代に引き継がれる。それが、世界の理だった。
ユージーンが引き継ぐはずだった、長の役目。
オルウが非情な決断を強いられた、その地位を引き継げば、つらいこともたくさんあるだろう。心がくじけそうになることも、あるに違いない。オルウのように、家族を犠牲にしなければならないことだってあるかもしれない。
「―――はい」
けれども、コウヤは顔を上げ、頷いた。オルウが満足げな顔になる。
ユージーンの後を継ぎ、彼が担うはずだったものを背負いたかった。
前を向こうとして、前を向いて歩いても、今はまだ、どこに向かえばいいのかわからない。
ユージーンの後ろ姿を追いかけていれば、やがて、自分がどこに向かいたいのか、わかるだろう。
「じゃあ、あんたに最初の役目を与えよう。……ユージーンの、墓をお建て」
「え……?」
「村のどの場所でもいい。私の名代として、あんたが場所を選び、その土地の人間と交渉して、建てるんだ」
「―――わかりました」
「そうしたら、墓の中に、一房でいい、あんたの髪を入れてほしい」
コウヤは顔をあげた。
ユージーンは、髪一筋たりとも残さず、消えてしまった。世界樹の苗床となった。
「ユージーンはあんたを、誰よりも愛した。その、あんたの体の一部を、ユージーンのかわりに」
「……はい。わかりました」
コウヤは深くうなずいた。
何故、オルウがこんなことを言い出したのか、コウヤには痛いほどよくわかった。
コウヤのためだ。
何かしていないとユージーンのことばかり思いだしてしまうコウヤに仕事を与えて何も考えさせるまいとしてくれたのだ。
オルウの配慮だった。
◆ ◆ ◆
ユージーンが、何故、あんなにも自分を想ったのか、コウヤにはまるでわからない。
誰がどう見たって、釣り合わない組み合わせだと、思う。
だが、オルウや、一部の村人の意見は違った。
ユージーンはコウヤに救われていた。コウヤは、他の誰かにとってはともかく、ユージーンにとっては、命を捨てるだけの価値ある相手だったのだと、そう言う。
コウヤは悩んだ末、ユージーンの墓を、少し離れた山の中腹に決めた。
そこは、誰のものでもない土地で、強いて言うなら村の土地だ。世界を救ったユージーンの墓を建てるといえば誰も文句は言わずに場所を譲るだろうけれど、コウヤは「譲ってもらった」場所に墓を建てたくなかったのだ。
ユージーンの想いが流れ込んできたから、わかる。
ユージーンは、この村を嫌っていた。愛していたけど、嫌っていた。自分の陰口を叩かれて、好きになれるはずもない。
そのユージーンの墓を建てるのに、村人に「譲ってもらった」土地よりも、ここのほうがずっと相応しかった。
村の水源である泉は山の麓にある。その泉への道の先を少し東に折れて、十分ほど歩くと開けた場所に出る。
その場所にユージーンの墓はあった。
コウヤは、首裏から髪を切って、茶の三つ編みを、すべて墓におさめた。
生まれおちてこの方、これほど髪を短くしたことはない。
短くなった髪が、頬の横で揺れていた。
「ユージーン、俺、オルウ様の養子になったよ。次の長としての勉強を、毎日してる。驚いたかな? 結構たいへん。でも、頑張るよ」
墓ができたとき、コウヤはそう報告した。
それから、日に一度はコウヤはここを訪れて、あったことを告げるのが日課になっている。
墓ができたときにしたことは、もう一つある。
コウヤは、白詰草の種を、墓の周り一面に蒔いた。
「ユージーン。俺ね、オルウさまのこと、みんなに言ったんだよ。世界樹を蘇らせる方法がわかったのは、オルウさまが本を買ったおかげだって。それから、これまで通ってきた村のことも、言った」
コウヤは、一年近くも旅をし、誰よりも多くの、冬で閉ざされていた村の状態を知る者だ。
その言葉には説得力があった。
「うちは、とても恵まれていたんだって。出産制限をしない村の貧しさや、滅んだ村があったことや、いろいろ、話した。みんな、最初は渋々だったけど、聞いてくれたよ」
事情を話すことについて、オルウには渋い顔をされたが、コウヤは強引に押し通した。
今はオルウを「おばあ様」と呼ぶ立場だが、コウヤはもともと「あちら側」だ。村人の間で、オルウがどれほど悪く言われているか、知っている。かなりひどい。
オルウの采配で春が戻ったので以前ほどではないだろうけれど。
それだけに、真実を知らせて是正すべきだと考えたのだ。
幸い、コウヤは村人全員に好かれている。昔との立場の差に戸惑いを持った者も多かったが、コウヤが持ち前の人懐こさで話しかけると、最初はぎこちなかったけれど、話をしてくれた。何度かそうやって話をすると、元通りだった。
「長って、嫌われているよりは、好かれている方がいいと思うから。人って、嫌いな人間が話をしても、聞かないから、さ」
だから、コウヤは話をしてまわった。
「証拠としてオルウ様が持っていた本を見せて、そうしたら、みんな、黙っちゃったけど。今度、生活に余裕ができたら、図書館をつくろうって話になったんだよ。村民は無料で見れて、他の村民はちょっとお金もらって。ほら、うちって銀山しかないけど、まだ銀は価値がもどってないから」
四季が戻っても、生活が元通りになるまで、まだかかる。
せっかく大量の本があるのだ、活用しなければ宝の持ち腐れだ。旅人だって、これからは増えるだろう。豊富な本や魔術書目当てに旅人が来てもおかしくない。
「俺が帰ってくるまでの間、春中、総出で荒れ放題の畑を耕してたんだって。種も蒔いてあるから、秋になったら作物がとれる。そうしたら、もう、食料の残りにびくびくしないで済むんだよ」
秋になり、作物がとれると、コウヤはそのうちのひとつを、ユージーンの墓の前に供えた。
ユージーンの墓の前で、村を見下ろして、蒸かした芋を食べていると、涙が出てきた。
今頃は多くの村で、たくさんの人たちが同じように食べ物にありついているだろう。
ユージーンに感謝しながら。
ユージーンの名を、知らないものはない。彼は世界樹を救った英雄になった。そして、後世への戒めのため、石碑に刻まれた。この千年ののちにまた世界樹が死を迎えたとき、もう、世界が長い冬に閉じ込められずに済むよう再生の方法を石に刻んだのだ。
皮も布も、その上に積み重なる千年の重みには耐えられない。千年以上もつ媒体を、人は他に知らない。
それもまた、「本」だった。
皮に記したもの、木の板に記したもの、石に記したもの、すべて「本」と呼ばれる。
オルウが入手した書籍には、石版の類も多い。
墓ができたとき、もう夏だった。
秋になり、冬が来て、年が変わり、季節は、春になった。
ユージーンの墓の周囲は、一面の白い花で覆われていた。
コウヤは、鎖骨まで伸びた茶の髪を揺らして、ユージーンに語りかけた。
「ユージーン。春だよ。ユージーンが呼んだ春だ。みんな喜んでる」
不意に、涙の衝動がこみ上げて、コウヤは顔を覆う。
旅の最中、あれほどまでに望んだ春の故郷の景色の中に自分はいる。なのに、心は浮き立たない。前を向いていこうと、頑張っているけれど、心はいつも思い出を振り返っている。
どうしてここに、ユージーンはいないのだろう―――……?
「馬鹿。お前は、そんな顔せず、いつもみたいに減らず口叩いていればいいんだよ」
ユージーンの声が聞こえて、コウヤは急いで振り返った。
もちろん、そこには誰もいない。
通り過ぎる柔らかな春の風が、コウヤの頬を撫でるばかりだ。
実際の耳に聞こえたと、錯覚してしまうほどの、幻聴……なのだろうか。
それが一番正しいことはコウヤにも判っている。
けれども、コウヤはそれがユージーンの声だと信じた。
「……不甲斐無い弟分でごめん。励ましに来てくれたんだ。ずーっとやきもきさせて、生きてたらきっと、とうの昔に拳骨で頭ぐりぐりされてるよね」
一面の白詰草の絨毯が目に飛び込んで、美しいと、久しぶりに感じた。そう感じることを、忘れていたのだ。
コウヤはそこで言葉を切り、涙が浮かびあがってきた顔で、天を見上げる。
空は、晴れ渡った蒼穹だった。美しいと、一年ぶりに思った。そんなことにも気づかなかったのだ。
コウヤは、両手を広げ、春の空気を胸いっぱいに抱きしめる。
一面の白詰草の中で、コウヤは涙を流した。
「幸せになるよ。俺、幸せになる。幸せになるって約束するから……ごめん。俺、ユージーンのこと、忘れるの無理だ」
まぶたの裏に、熱いものを感じながら続ける。
「一生、ずっと、忘れない。助けてもらったこの命、抱きしめて生きる。ありがとう、ユージーン」
返事のように、一面の白詰草が揺れた。
→ BACK
- 関連記事
-
スポンサーサイト
Information
Comment:0