綺麗な人だなあ。
それが、先生の大切なひとへの第一印象だった。
綺麗ではあるけど近づきづらい。
そう感じてしまうのは、私が子どもで、その人が明らかに異人種の特徴を持っていたせいだ。
私がいる田舎町では異人種なんか滅多にいない。リオンさんが、私が初めて見た異人だった。
鼻がすらりと高く、大きい。目元も大きく落ちくぼんでいる。顔の凸凹が全体的に私たちよりずっと大きくて、どうしても私の目には異様に見える。
リオンさんは私を見ると微笑んで挨拶してくれた。感じのいい、綺麗なひとではあるけれど、異人種だからやっぱり何となく怖いと思ってしまう。
こういう人が先生の好みなのか、確かに綺麗な人だなあ。
先生って異人が好きなのか、面食いなのか、どっちかなあ。
最初の出会いは、微笑んで挨拶して、それだけ。
それから長いこと、接触はそのくらいだった。
その日、私は先生が帰ってきたという知らせをお父さんから聞いた。
すぐにでも駆けだそうとした私を引き止めて、お父さんは念入りに言い聞かせた。
「お前の先生は大金を持っているらしい。お前がすがれば出してくれる可能性は高いだろう。いいか、俺をうんと悪役にして、俺がひどくてひどくてひどい父親なんだっていうんだぞ? 俺に言われて仕方なくやってきた、どうか助けて下さいって。おまえの言う通りお前の先生が優しいなら、きっと助けてくれる」
「うん! わかった」
元気に頷いて、私はすぐに先生のところに走っていった。
間に合った!
間に合った!
間に合ってくれた!
あの日、口から出まかせで稼いだ二か月。
その期限が切れたらお父さんは本家に行ってお金を借り、私は前妻を殴り殺した暴力男に嫁ぐ。
その期限が切れる前に、先生は帰ってきた! 帰って来てくれた!
これで私は助かるんだ!
はやる気持ちが足を休ませない。つかれも全然感じない。
家から先生のお宅までかなりあるのに、私は一度も休むことなく駆け通した。
そして扉を叩いて――私は現実をつきつけられた。
先生の隣にはあの綺麗なひとがいた。
二人で旅をして、二人で帰ってきたんだ。
お二人がとても仲がいいことは、少しそのたたずまいを見ているだけでも伝わった。
目配せで意志を伝えあう無言の連帯や、温かいきずなの存在が感じられる空気。
そして、先生たちは困っていた。
私が持ち込んだ厄介事を関係ないと拒否するか、あるいは私を助けるかで。
私はてっきり、先生さえ説得すればいいと思っていたから驚いた。
先生にリオンさんがしたがう的な関係だと思ってた。世間の夫婦ってそういうものだ。
でも先生とリオンさんの関係は、『対等』だった。少なくとも、私が知っている夫婦のどれより対等に近い。
「この子を助けるということは、金を出すという事。金を出すという事は、この子の親に付きまとわれるということだ。金づるになるとわかった人間を、解放してくれると思うか? 何かあるたびに金を請求されるぞ」
その言葉を否定したかったけれど、先生やリオンさんが信じてくれるとも思えない。口出しが許される雰囲気でもなかったから黙って、話の推移を見守っていた。
「『助けてもいい』じゃ駄目だ。『助けたい』じゃなきゃ。リンカを助けるっていうことは、それだけの覚悟がいることだ」
先生は、リオンさんにも迷惑がふりかかることを、先生の独断で決断しないんだ。
私はリオンさんをも説得しないといけない。
そして、そして!
先生はその機会をちゃんと私に与えてくれた!
今度こそ見えた光明に目から涙が溢れそうになるけれど、全身の力でこらえる。
リオンさんは、女の子が泣いたからって簡単に同情するような甘い人じゃない。それは短いやりとりでも伝わった。
――人の心には、不可能を可能にする力がある。
リオンさんを説得すれば、私は助かる。やっと見えたこの状況から這い上がる希望。
それができなければ、私は売られる。殺される可能性も低くない。
必死にリオンさんに訴える。
最初私の言葉はリオンさんに届く気配がなかったけれど、自分の気持ちを必死に言葉にして紡ぎ続けると、リオンさんに響いた感触があった。
やがて諦めたようなため息をして、リオンさんは折れてくれた。
「ジョカ。私はこの子を見捨てたくない。助けたい。でも、私はこの子を助けるためにどうすればいいのかわからない。最善の道すじを、教えてほしい」
その言葉を聞いた時、私はうれしくてうれしくて泣きそうだった。
これで私は助かる。これまで通り、先生の弟子でいられる。どこへも行かなくていい……。
――だけど。
先生たちがお父さんを見る目は、冷ややかそのものだった。特にリオンさんがお父さんを見る目ときたら害虫以下だ。
私の話しか聞いてないんだから、しょうがないとは思う。
お父さんがしたことを並べるとこうだ。
酒浸りで娘の給金を酒代に使い果たし、その挙句に娘を売った父親。
まともな人なら、快く思えるはずもなかった。
反駁したかったけれど、お父さんに言われた事や、リオンさんの機嫌を損ねるのがこわくて、何もいえなかった。
この界隈でもお父さんの評判ときたら最悪だ。私が何とかしようと足掻いて近所のおばさんに相談した結果、お父さんが何をしたのかは近所中に広まった。
――ちがうんです。
――たしかにお父さんは最低だったけど、心を入れ替えてくれたんです。
――たしかに、たしかに最低だったけど。私に許せないほどひどいことをしたけど。
もやもやする心は、リオンさんが蔑みの目でお父さんに接し、あまつさえ暴力をふるったことで頂点に達した。
なんで殴るの!? お父さんはリオンさんに何もしてないのに!
私は先生を振り仰いだけれど、先生もリオンさんの行動を何も問題と思っていないことがその表情でわかった。
……ひどい。
私が思っちゃいけないかもしれないけど、ひどい。
なんで殴るの? お父さんは確かに私にひどいことをしたけどリオンさんには何もしてないのに。
でも、こういうものかも、しれない。
私に同情して、リオンさんは私にお金を貸してくれる決断をした。ひどい父親に売られる女の子に同情して、だ。
――なら、お父さんへの感情は地を這っているだろう。
少なくとも殴って暴力を振るっても何とも思わない程度には、お父さんのことを悪く思っているんだ。
お父さんを擁護したい心を私はぐっとこらえて見ていた。
見ているうちにリオンさんがやっていることが、私にもわかった。
脅しによる今後の関係の拒絶。
脅迫しての交渉だ。
最初に暴力を振るえば相手は怯えるよね。誰だって痛いのいやだもん。
そうして恐怖を植え付けることで私への付きまといをやめさせて、お金をせびられるのは今回かぎりにしようとしているんだ。
……そんなこと、しなくたって今回かぎりなのに……。
でも、そんなことリオンさんにはわかりっこないよね。
それにしてもリオンさんて、思ったよりずっと手が早いんだな。暴力的な意味で。
もっと優しくて穏やかな人だと思ってたけど、人に暴力を簡単に振るえる人なんだ。
お父さんは大人しく金を受け取って先生たちはすぐに踵を返す。
私はリオンさんと先生に連れられて歩いた。
これから私は、お父さんの住む家に戻ることはなく、先生の診療所で住み込みで働くことになる。
今までは弟子だったけど、これからは弟子兼下女だ。それが嫌ってわけじゃ、もちろんない。
私は歩きながら、リオンさんの横顔をそっとうかがう。
整った横顔が冷たく見えるのは、さっきの事を私が引きずっているせいなのかな……。
胸に詰まったものが重くて自然と足取りも重くなった。
お父さんは、どうなるんだろう。
いきなり殴られて娘をつれていかれて……お父さんは、ほんとうに、立ち直れるんだろうか。
お父さんが心を入れ替えたといっても、駄目人間だった時間が長すぎて、どうしても不安になってしまう。
このまま私が去ったら、お父さんはまた駄目人間になってしまうんじゃないだろうか。
試しにお父さんの今後について先生に聞いたら、同じ意見だった。
「俺がさっき渡した金をちゃんと返済に当てられるかによる。もしもお前の父が俺が渡した金を遊びに使ってしまえば、そこまでだ」
私がいなくなって、お父さんは落ち込むに違いない。
落ち込んで、そのあと、また酒に逃げたら――?
お父さんは立ち直ったあと、何とかお酒をやめようやめようと一生懸命になっていた。
震える手足でもできる簡単な力仕事を始めて、でも毎日怒鳴られてばかりの安い給金で、お父さんにはそれが堪えたみたい。お父さんは前は腕のいい大工としてそれなりのお給金をもらっていたから。
でも、今の震える手足で以前のような仕事はできないから。
お父さんは歯を食いしばって働いていた。
それが、また、元に戻ったら――?
私は前を行く大人の男の人ふたりの背中を見つめた。
……この背中にこのままついていけば、私はきっと、治療師になれる。
でも、それは、お父さんが更生したのを見届けてからでも、いいんじゃないだろうか。
先生の手からお父さんに渡ったお金が、きちんと使われることを見届けて、お父さんが立ち直ってからでも、できるよね?
私は自分の目の前に二つの道があるのを幻視した。
くっきりと自分の人生がわかたれる選択が目の前にあった。
この間は私は人生って気づかないうちに選択を済ませるものだって思ったけれど、今は違う。はっきりと自覚的に選ぶ未来があった。
普通なら、どっちを選ぶかなんてわかりきってる。
お父さんは、私を酒代のために売ったんだ。
そんなお父さんのためにこれ以上何かしようなんて、馬鹿げてる。
……でも……。
お母さんが生きていたころ、お父さんは優しかった。
死んだ後も優しかった。
優しく無くなったのは、お酒を飲み始めてからだ。
きっと、お父さんは私が戻れば、立ち直れる。ここで私が戻って、お父さんを叱って励ませばやり直せると思う。
でもここで私が戻らなかったら、たぶんきっと。
迷っていると、お母さんの声が聞こえた。
ありえないんだけど、はっきりと私の耳はお母さんの声を聞き取った。
――凜花。
お母さんの声が言っていた。
――お父さんをお願いね、と。
◆ ◆ ◆
いきなり戻ると言った私に先生は呆れ八割、心配二割の声をかけた。
とうぜんだ、せっかく大金を払って自由にしてやった娘が、自ら進んで駄目な父親のもとにもどるというんだから。
でも、私は確信があった。
今戻ればお父さんはだいじょうぶだという確信。
でも今戻らなかったら、お父さんは逆戻りするだろうという推測が。
先生、先生、ありがとうございます。お金を貸して助けてくださってありがとうございます。
お金は必ず返しますから。女郎屋に行ってでも返しますから。
私は止める先生を振り切ってお父さんのところに戻った。
走って、走って、はしって――追いかけてくる人はいないことに気づいて寂しさとともに足を緩めた。
先生はやさしいけれどもやさしいだけではない人だ。
一度は助けても、二度は助けない。そういう信条を持っている。
きっと、先生が何度でも手を差し伸べるのはリオンさんだけ。
私はもう、二度も助けてもらった。だから三度目はない。金輪際ない。
もう、あの手が差し伸べられることはない。
だから先生は追いかけてこない。
それをわかっていたけれども、やっぱり改めてつきつけられると悲しくて……重い足取りで私は家路をたどった。
家についたとき、お父さんは食卓の上に金袋を置いて、手で顔を覆っていた。
金なんてどうでもいいと言いたげに、何もかもどうでもいいと言わんばかりに、金を無造作に放って虚脱していた。
「お父さん……」
声をかけると、お父さんは手をほどき、顔を上げた。
私の姿を見て信じられない、というように声をあげる。
「りんか……? 凜花なのか……!?」
私は、それまで大人の男の人が泣くのを見たことがなかった。
信じられないものを見るような顔をした後、眼窩に涙がたまっていく。よろこびで。
その顔を見た時、私は心から思った。
これで、よかったんだ――と。
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