あなたは笑いを知らない。笑うと叩かれたから。
あなたは泣く事を知らない。泣くと殴られたから。
あなたは楽しいということを知らない。何かを楽しむということを教えてもらわなかったから。
あなたは怒るということを知らない。憤怒の感情はそれが形となる前にすべて摘まれ、消えてしまったから。
あなたは知らなかった。
己の環境が歪んでいるということさえもあなたは知らなかった。今いる環境こそが最上であると思っていた。
無垢という名の無知が、すべてを曇らせた。
◆ ◆ ◆
「うるさいんだよ、この糞ガキ!」
罵声とともに酒瓶が振り上げられ、あなたの腹に叩きつけられました。
あなたは横へと吹き飛ばされて、小さな体は狭い部屋の壁にぶつかり、滑り落ちました。
早く逃げなくてはと思っても、体は動きません。
あなたの視界に、影がさします。
弱々しい動きで顔を上げるとそこには、あなたの実の父親がいました。
「まったくよお。出来そこないのくせにぐだぐだうるせえんだよ!」
今度こそ、殴りつける腕や蹴りつける足を回避する手段はありませんでした。
あなたはまだ十五歳。しかも見た目はそれより二三歳は下に見える貧弱な体です。
あなたがいつもどおりに、父親の気が済むまで殴られることになるだろうと悟ったそのときです。
邪魔をする声がかかりました。
「ねえ父さん。そいつちょっとつつくとゲーゲー吐いて臭いから、その辺にしてくんない?」
ストレス発散を途中で止められ、父親は不機嫌な顔で振り返りますが、そこにいた子どもの顔をみてころりと機嫌を直しました。
「ああルスか。わかったわかった。こいつが役立たずのくせして学校の学費がどうのこうのとうるさいもんで、ちょっと躾してやったんだ」
「犬に躾したって覚えないよ。犬の方がまだ覚えがいいだろ。そいつに比べれば」
蔑みの目で見下ろし、せせら笑う子どもは、あなたの弟です。
でも二人並んでいるところを見てそう見る人はいないでしょう。
弟はあなたよりずっと体が大きく、少しも似ていません。そして、何より、あなたとは違い、弟には才能がありました。
一介の平民が持つにしては稀有なほど大きな魔力。立身出世を夢見、破れた父親が夢を託すのに充分すぎるほどの才能が。
興味を無くした父親が去ると、弟が近づいてきました。
壁際に崩れ落ちたまま動けないでいるあなたをゾッとするような目で見ています。
「……父さんにも困ったもんだよな。殺しちまったら流石にマズいってのに、手加減を知らないで」
弟はあなたに手をかざします。
「
奉魔。癒しの力よ、ここへ集え」
急速に喉元から何かがせり上がり、あなたは吐きだしました。激しく咳き込む音とともに、床が血で染まります。
あなたのなかに出来つつあった血の塊が、弟の魔法によって取り除かれたのでした。
「うわ、ばっちい……。あとで掃除しとけよ」
言われるまでもありません。この状態が見つかれば、また殴られることは間違いありません。
咳き込みながら頷くあなたの顎を、弟がつかみました。
「で? 今日は何して父さんを怒らせたわけ?」
顎を掴まれているので、声は途切れ途切れに細くなりました。
「……が、っこう……。学費……滞納……してて……」
学校で教師に学費を催促されたあなたがおずおずと父親にお願いしたところ、答えは暴力だったのです。……予想通りでしたが。
「ああ、なるほどね。父さんはお前にかける金は無駄金だっつってるもんな。お前にかける金があったら、ぜんぶ俺に回したいんだってよ。見込みのないのに掛けるより、見込みがある方に掛けるほうがずっと有意義な金の使い道だって」
弟は、そこで言葉を切ってあなたを見ます。
期待したのでしょう、あなたの傷つくところを見たいと思ったのでしょう。
けれど、そんな言葉に傷つく心は、もうあなたにはありません。
虚ろな目で、弟を見返します。やがて、苛立ったように弟はあなたを放り捨てました。
あなたはふらふらとよろめきつつ、立ち上がります。掃除をしなければなりません。
弟の隣を通り過ぎようとしたとき、抱きすくめられました。
「学費がほしいか?」
頷きました。
「お願いしますっていえば、俺が出してやるぜ」
「お願いします」
するりと、抵抗もなく、懇願の言葉はあなたの唇から滑り出ました。
鳥の足のように細いあなたの体を、弟の熱い腕が抱きとめています。びくりと、その腕が震えました。
父親の暴力が始まったのは、いつの頃だったでしょう。あなたは覚えていません。
平民として、普通程度の魔力を持って生まれたあなたは、普通に可愛がられ、愛されていました。
それが変わったのは、弟が生まれてからです。
魔力は遺伝によるところが大きく、ただの平民でしかない父母から弟のような大きな魔力を持った子どもが生まれるのは、無いとは言いませんが、稀なことでした。
それ故に、弟が生まれたとき、両親は狂喜しました。特に父親は。
そして、弟がぐんぐん成長し、才覚をあらわしていくにつれ――父親のあなたへの風当たりも強くなりました。
母がそんな父をいさめても止まらず、父親はこいつは食うだけで何も産まない金食い虫だ、これはしつけだと言い張りました。
いつしか母親もそれに染まり、弟にだけ期待をして、見て見ぬふりをするようになりました。
そんな父母に育てられ、あいつはクズだから仕方がない、役立たずだから暴力をふるわれても当然だと言い含められて育った弟も――、水が砂に染み込むように、そう思うようになりました。
今やもう、この家の中であなたが暴力を振るわれるのは当たり前のことになり、あなた自身も、それを日常とするようになりました。
笑えば、何がおかしいと殴られます。
泣けば、うるさいと殴られます。
何か楽しそうにしていれば、家族はそれを取り上げ、壊します。
気がつけば、あなたは硝子のような目をした、感情の見えない子どもになっていました。
学校でも、同学年の子どもよりずっと体が小さく、泣きも笑いもしない不気味なあなたはからかいと暴力の対象でした。
それでも、時々は思い出すことがあります。
弟がまだ、生まれてなかった頃。
両親が優しく、愛してくれた頃を。
――そして、その頃を取り戻す方法は、一つしかないように思えました。
強くなるのです。才能のある弟よりも強く。
……そうすれば、両親も、また再びあなたを見てくれるでしょう。
そう信じて、あなたは、酷く殴られた翌日も、ふらふらの体を持ちあげて、学校へ通います。
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