ジョカの手が、リオンに触れる。
愛しいという感情はまったくもって不思議で他面から見れば理不尽だと、リオンはいつも思う。
他の男なら即座に跳ね除ける肌と肌の接触が、こんなにも嬉しいのだから。
ふれられて嬉しい。
さわられること、情欲の対象となっていることに、よろこびしか感じない。
リオンは他の男に触れられても嬉しいとは思わない。まして、男性器にふれるくらいなら、道端に落ちている家畜の糞の始末をした方がまだましだと思う人間だ。
なのに、ジョカにふれられることは少しも嫌でなく、こちらからふれることにも愛しさと喜びしか感じない。
ジョカに抱きしめられ、愛撫を交換していると自分の強張ったからだと心がほどけていくのがわかる。
愛しさを伝えあう、原初の行為だった。
◆ ◆ ◆
リオンの取り柄は、その前向きさだ。
ジョカも言っていたではないか。人には知恵がある、と。
ジョカ自身、幽閉中でもその知恵と工夫を使って最大限自分に心地よい環境を作っていた。
そう、人には知恵があるのだ。
諦めずに知恵と工夫をすれば目途がたつことは多い。
リオンには一度落ち込んでも反省しても、顔を上げて「じゃあどうしよう」と考えられる前向きさがある。
それこそがリオンの最大の取り柄だ。
そんなわけで、リオンは現状の問題点を洗い出し、改善できるものを取り出し、改善にともなう改悪について、よくよく優秀な頭で考えてみて……結論を出す前にひと騒動が起きた。
朝っぱらから押しかけ借金志願者が来たのだ。
◆
「ま、そのうち来るだろーなーと思ってたけどな」
ジョカはのんきに感想を述べた。
リオンは腕組みした冷酷な顔でその女を見下ろす。
明らかにリオンの失策だ。
戸を開けた瞬間に飛び込まれて家の中に侵入させてしまった。
リンカのときのようにジョカの指示があったわけでも、用心をしていたわけでもない。
この世に二つとない宝、世界で最後の魔術師の護衛として、不覚である。
押しかけてきた女は、年は四十代後半に見える。が、ひょっとしたら実年齢はもっと若いかもしれない。性格のきつさが顔に出ているタイプで、肌艶がなく、目が吊り上がり表情も歪んでいるので実年齢より相当年かさに見えた。
「助けて下さい! 助けて下さい! 助けられるんだから助けてよ!」
女の言葉を聞いて、リオンは首をかしげた。
リオンは、異邦の身だ。語学力に万全の自信はない。つい先日、リンカとジョカから訛りがひどいと言われたばかりだし。
「……なあ、ジョカ。私の語学力がおかしいのか? 命令形に聞こえるんだが」
ジョカはしたり顔でうなずく。
「俺の耳にも同じように聞こえます」
「あんた流民でしょ! そんな金持ってたって宝の持ち腐れよ! 私がきちんと使ってあげるからよこしなさいよ!」
「なあ、ジョカ――」
「お前の翻訳はおかしくないと思うよ。俺の耳にも耳を疑うような言葉が入ってきてます」
「流民ごときが無視してんじゃないわよ! 答えなさいよ!」
リオンが三度(みたび)、真顔でジョカに話しかける。
「なあ、ジョカ――」
「あー誤解しないように。これがこの辺りの普通のやり方じゃないから。この辺の国でも人に金を借りるときには平身低頭だから」
「つまり?」
「放り出すか無視するか」
ジョカもリオンも男で体格のいい方だ。暴れられようが、女一人を力ずくで追い出すくらいはできる。
「ちょっと! あのガキには援助したんでしょう! だったら私にも金をよこしなさいよ! 差別する気!?」
二人が相談する間も女はわめいているが、二人とも完璧に無視した。
「力ずくで放り出したら後になって乱暴された! とか言われないか?」
「言われそうだな」
「じゃあジョカ、少しの間、見ていてくれ。近所の人を呼んでくる」
リオンが近所の人を証人として呼んできた。周囲にも女の声は聞こえていて何事かと外に出ていたので、来てもらうのに手間はかからなかった。リオンがきちんと近所付き合いをしていることもある。
近所の人たちが見つめる中、二人は左右から女の腕をつかみ、家から引きずるように追い出す。
問題は捨てる場所である。
近所に捨てたらまた駆け戻るのが目に見えている。
なので、役人の詰め所に行ってそこで解放する。
「どうしたんですか?」
物柔らかに役人がジョカに話しかけ、リオンは驚いた。
最下層民に対する役人の態度ではない。
が、すぐにジョカの目配せで事情を察する。患者だ。
「この女が俺の家に押しかけてきたんだ」
「この流民が! お役人さん! こいつら私に暴力をふるったんだよ! 力ずくで無理矢理か弱い女を羽交い絞めにして連れてきたんだ! 捕まえとくれ!」
「そうですか、それは大変でしたね」
役人は女を完全に無視してジョカに相対し、ジョカに相槌を打つ。
「ああ、それでここまで連れてきたんだ。悪いが後は頼めるか?」
「ええ、わかりました。任せて下さい」
役人のジョカへの態度は、流民へのものとは思えないほど丁重だ。
聞くに堪えない悪態をつきつづけていた女も、途中からぽかんとした顔でそのやりとりを見ている。
「じゃあよろしくお願いします」
ジョカは頭を下げて立ち去る。
勿論リオンも同伴したが、途中でジョカと別れる。
ジョカは診療所へ、リオンは家へと戻った。
予想してはいたが、近所の人が好奇心で顔をいっぱいにしてこちらをうかがっていた。
リオンはにこやかに自分から話しかける。
ご近所付き合いは大事。
リオンの経験則である。
特に、リオンは西方人で流民なのだ。壁は、こちらから近寄って薄くしなければいつまでたっても雪解けしない。
「どうも朝からすみません。顔も知らない人なんですが、急に押しかけてきて金を貸せって言ってきたんです」
「ああ……あの人はなあ」
「シュウさんでしょ、あの人。うわさどおりね」
と、近所の人は知っているようすだ。
リオンは一応聞いてみた。
「ご存知なんですか?」
「ああ、あの婆は、隣町で有名な迷惑女だよ」
と、次から次へと彼女の犯罪行為を教えてくれた。
窃盗、脅迫、ひったくり、等々。
リオンはそれを聞きながら心にうなずく。
――ああ、それでか。
役人の態度が丁重だったのはジョカが看ている患者だとしても、女の訴えを一顧だにしなかったのは何故だろうと思っていたのだが、理由がわかった。
「災難だったね」
と、近所の人々はそろってリオンに同情的で、これは意外な好反応だった。加害者が前歴もちの迷惑者だという事も大きいだろうが。
ルイジアナでも揉め事があると、被害者にも幾分の責任があるんじゃないか、という見方が主流だ。実際にその通りであることも多い。
そのうちの一人がリオンにそっと話しかけた。
「ごめんね、こんなことになって……」
「え?」
リオンは善人顔のふっくらした頬の中年女性を見つめた。
なんで彼女が謝るのだろう?
「リンカちゃんを助けてくれて、ありがとう」
「え? あの子の知り合いですか?」
「有名だもの、知ってるわよ。あなたの旦那さんのところで働いてる可愛い子でしょ。あの子を助けてくれてありがとう。でも、その話があの人の耳に入っちゃったみたいで……この街の人間が迷惑かけてごめんなさいね。でも、この街を嫌わないでほしいの」
ジョカが選んだだけあって、この温泉街は優しい人間が多い。
ゆったりと緩くのんびりした空気が町全体に漂っているのだ。
それは、そう。
こうした瞬間に実感する。
流民のリオンに対して自分のせいでもないことで謝ってくれる女性をリオンは優しく微笑んで見下ろした。
リオンは自分の笑顔が人に、特に異性に与える影響を知っていた。
「だいじょうぶです。皆さんがとても優しい方々だと、私は知っていますから」
少しひねこびた根性で考えれば、ジョカがいなくなったら困るんだろうな、とか、彼女か親戚がジョカの患者なんだろうな、など考えることもできるが――、そんなのは考える必要もないことだった。
裏の事情はどうであれ、彼女はリオンの災難に心を痛めて案じてくれた。それだけでいいではないか。
多少沈んでいた気分が近所の人々のいたわりで上向き、リオンが上機嫌で情報収集と家事につとめていると、夕方ジョカが帰ってきた。
リンカを連れて。
目が合うなりリンカは土下座せんばかりに頭を下げた。
「すみませんでした!」
「……は?」
「あの人がお宅に押し掛けたって聞いて……ほんとうにごめんなさい!」
「――おい。まさか、お前がけしかけたのか?」
思わず表情が険しくなる。
リンカは大慌てで否定した。
「い、いいえ! まさか! 違います、そんな事絶対にしません。ただ、その……思ったより広範囲でうわさになっちゃって……」
「ああ……」
「先日私が考えなしに言った言葉も、どうかなしにしてください。お金貸してあげてくださいなんて言っちゃいけませんでした。すみませんでした」
リンカが再び深々と頭を下げたが……、リオンには少々興ざめだった。
確かに身勝手で幼い意見ではあったが、あの言葉には少女の心からもので、だからこそ人の心を動かす力があった。
あの時、あの瞬間、間違いなく彼女は心からそう言ったのだ。
――自分が苦しんでいるとき助けてくれてとても嬉しかった、だからどうか同じように苦しんでいる人に手を差し伸べてほしい、と。
笑えるほど単純であけっぴろげな善性の発露がそこにはあった。
大人は今回のああいう女性のことを考えて、中々言えない。子どもだからこそ言える意見だ。
少なからずそれにリオンは感銘を受けたのだから、撤回はしないでほしいものである。
「……いや、それはなしにするつもりはない」
「えっ」
「適切な金利で金を貸すのは社会的にも意義がある行為だと思う」
リンカは首を傾げた。使った言葉が難しすぎたらしい。
「しゃかいてき? いぎ?」
「ええと……」
隣からジョカが補足してくれた。
「いろんな人が必要としてることだって意味」
「そ……う、ですか? 金貸しが?」
少女はあまりピンとこないようだ。金貸しは汚い、そういう先入観が、透けて見える。その金貸しのせいでひどい目にあったのだから、無理もないが。
「リンカ、お前が売られた時、いろんな人に頼った時、もしも低金利でお金を貸してくれる人がいたら? すごく助かるだろう?」
「え……でも私みたいな子どもにお金なんて貸してくれる人、いませんよ」
もっともな疑問に答えたのは、ジョカだ。
「そうだな。でも、リンカ、お前には味方がたくさんいるんだろう? 彼らがお前の保証人になってくれれば、お金を貸してくれるとしたら?」
「ほしょうにん? なんです、それ」
「お前の身分を保証する、ってことだ。おまえの人柄、おまえのこれまでの行動を知っていて、お前を応援したいから自分が保証するって言ってくれる人間は、いるか?」
「……いてくれると思いますけど……、でも、みんな女の人です。そのほしょうにん? にはなれないと思います」
「女性でもなれるとしたら?」
重ねて言われ、リンカは考え込んだ。
少しして顔を上げる。
「あの、それってつまり、私が逃げないかどうかの証人ってことですか?」
「ああ」
「じゃあ、います。いてくれると思います」
「リンカ、お前は俺という知り合いがいたから助かった。でも、もしもそういう知り合いがいなくても助けてくれるところがあったら? すごく助かるだろう? 逆に言えば、今はそういうところがないから、金利が高い金貸しに金を借りるしかないんだ」
「きんり、って何ですか?」
無邪気に聞かれ、ふたりは揃って一瞬絶句した。
しかしすぐに思い至る。
金貸しに借金などしたこともない、しようと思ったこともない、金融に何の縁もない少女なのだ。
そして、リンカは決して特に際立って無学な少女ではなく、ごく普通の、いや普通より教養のある方の女の子だ。
そのリンカでもこうなのだ。たぶん、金利の利率を聞いても意味が理解できないだろうし、ということは、毟り放題だろう。
思えばルイジアナでも、学校の勉強を嫌がって逃げようとする子どもは多かった。こんなの生活で何の役に立つんだ、と言って。
リオンもそれに明確な返答が見つからないでいたが、こういうことなのだ。
学力は、無くても一見何の不都合もないように見える。だが、それは、不都合があることすら見えていないからなのだ。悪人は、自分が相手を騙していることすら気づかせずに騙す。
基礎学力は、自分の身を守る盾となる。
リオンは腕組みをして考えた。
「ジョカ……私が学校をつくったとしてもだ、リンカが通えるはずがないな」
ジョカにこき使われている上、自宅の家事を一手に担っている少女に、そんな時間があるはずもない。
「そうだな」
「働いている人間が、働いていて家事も行っている人間が、行けるはずがない。つまり、その前にやらないと駄目だ。そうか……あなたが児童の初等教育に力を注いだのは、そういうことか」
「頭が柔軟なうちに教育した方が身に付きやすいってこともあるけどな」
「大抵の徒弟制度でも、できるだけ若い時からやったほうが身につくとされているものな。まあリンカの教育はあなたの職掌として……、読み書きと基本的な算術くらいは必要か」
「う……っ、そうだよな、リンカも基本的な算術くらいは身につけないといけないか……教えるのは俺しかいないな」
「え? 算術? いりませんよ、そんなの何の役に立つんです?」
リンカの言葉を、二人は完全に無視した。
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