リンカは足し算引き算はできる。そうでなければ診療所で会計はできない。
が、掛け算と割り算はできない。
それはこれから教えなければならない。
また、基本的な読み書きぐらいはできなくてはならない。
なぜ基本的とつけたのかというと、文書というのは大抵どの地域でも、「深さ」があるからだ。
どういうわけか、権威は「難解な言い回しをこのむ」という世界共通の法則でもあるらしく、役人の文書というのは揃いも揃って非常に読み下すのが難しい。これはもう役人の悪癖である。言語明瞭にして意味がわけわからん文章を書くのはやめてほしいものである。
ジョカはもちろんそういった文書でも解読できるが、それは例外中の例外だ。
リンカにそんな行政文書を読めるようになるところまで求めようとは思わない。
庶民が使う言葉を文書にしたような易しい文書でいいので、読めるようにならないといけない。
熟考の末、その日の晩、ジョカは紙束を持って帰ってきた。
紙の発祥の地であるこの地域では、紙は明らかにルイジアナより安く、広く普及している。書きつけ以外にも、利用方法は多岐にわたる。
帰り道、ジョカは紙屋に寄って質の悪い安物の紙を大量に買ってきたのだ。
「どうしたんだ、それ?」
「リンカのモチベーションを上げるための教材」
「教材? ……ああ、なるほど」
察しのいいリオンはそれで悟ったようだ。
リオンの察しの良さにはかつてさんざん苦労させられたものだが、こういう時は話が早くて助かる。
「どんな勉強にしろ、本人の心構えが一番大事だからな。嫌々やって、能率が上がる仕事なんてどこにもない」
リンカ自身が読み書きの重要性に気づいていないのだ。
なくても特に不自由を感じていないために。
周りじゅうすべて文字が読めないと、文字が読めないことが前提の社会が形成される。その中では文字が読めなくとも人は不都合なく生きていけるのだ。
よって、何らかの動機付けをしないと成果はあがらないだろう。
「私が口述筆記しようか? 練習にもなるし」
ジョカはしばし考えて、却下した。
「……提案はありがたいけど、むり」
リオンは青い目をきらめかせて覗き込んだ。
「なぜ?」
「漢字は表音文字じゃなくて表意文字だから。お前も知らない薬草の言葉や調剤用語がたくさんでてくる。お前、軟膏の漢字、どう書くのか知ってるか?」
実例を出されたことですぐに理解して、リオンは降参した。
「わかった。無理だな」
「そういうこと」
その会話の間にリオンは自分が手習いに使っている墨と筆を出して、テーブルの上に並べた。
ジョカは短く礼を言って頭の中でリンカの教本となる本のレイアウトを考えながら、紙にもくじを書きこんでいく。
「調剤の方法や、手当の仕方、薬の配合なんかを書いた本にするつもりだから、当然専門用語てんこもりだ。お前に一々漢字を説明するより、自分で書いた方が早い」
「それならリンカもこの本を自力で読もうって意欲がわくものな」
「そういうことです。……ったく、漢字はなあ、表音文字を別途作れと思うぞ。書きづらい~」
ジョカは顔をしかめながらも、手はよどみなく動いて複雑な形状の文字をすらすらと生み出していく。
その様はリオンから見ると魔法のようで……、リオンはジョカの隣の椅子に座ると、頬杖をついてその様子を眺めた。
「……リオンさん」
「はい」
「なんでそうワタクシを凝視されているのでしょうか」
「見ていたいから」
「面白いか?」
「面白い」
リオンはすなおに頷いた。
何もない白い画面に筆が踊るたび、黒の文字が自由自在に生み出されていくのだ。
見ていて非常に面白い。
「……リオンの感性は時々よくわからん」
ジョカはぼやきながらもリオンを追いやったりせずにそのまま筆記を続けた。
しばらく、穏やかな時間が流れた。
じりじりと、光源である燈明の油が燃えていく音。
ジョカが墨に筆を付ける微かな水音。
墨の量を見計らって時折リオンが墨をする音。
そしてジョカが筆を紙に滑らせる音が部屋に平らかに、緩やかに流れていく。
リオンはジョカの書をしたためる姿がとても好きだ。
彼の読書中の姿同様、そこには静の美がある。
ジョカが書をする姿はお手本そのものだ。
背筋はぴんとのび、手に持った筆は完全に床に対して垂直を維持していて、まったく軸がずれない。
筆の半ばほどを持ち、書面に馬の毛でできた細い筆を思うとおりに踊らせている。リオンはこれが、言うほど簡単ではないことを知っている。
そういうジョカの書は、人によって評価が分かれるものだ。上手い字だが、面白味がないという人もいるだろう。
とにかく正確なのだ。
跳ねや点の位置まで、きっちり揃っている。
――正確無比。
そんな言葉まで浮かぶ文字だった。
これを正確なことを第一の美徳としてその他の取り柄がない、そう酷評することもできるだろう。
魔術師の特性を反映した文字ともいえる。魂に言語知識を焼き付けられたときの見本のひな形そのままに、ジョカはトレースしているのだ。
知識をイコールで肉体に反映できる。それが魔術師の強みでもあり、弱みでもある。
しかし、筆の扱いに手こずっていて悪筆の部類に入るリオンからすれば、羨むような美文字であることも確かだった。
見惚れるほどうつくしい文字が、愛しい人の手によって書かれているのだ。
見ているだけでも楽しいひとときだった。
「ん? ジョカ、ここの言い回しだが……可及的速やかに、の方がいいんじゃないか?」
リオンは多少文字を読める。ジョカのように自由自在ではないが、完全な文盲ではない。
「往々にして、異邦人の方が難しい言い回しを知っていたりするんだよなあ……。却下。リンカにそんな難しい言い回しができるか」
「……了解」
リオンもかつてリンカに言葉が通じなかったことを思い出し、頷いた。
言葉というのは実に深いものだ。
リオンはジョカ手ずからここの言葉を教わっているので、高等な言い回しができる。が、逆に庶民的な言い回しは穴がある。
リオンは文盲ではないが、かといって実際に読み書きできるかといわれると不安がある。
これは、言語を教師に習ったものの、実地で経験をしていない人間が共通で感じることだろう。
読み書きできない人間が圧倒的多数の国では、読み書きが求められることなどほとんどない。上流階級か、あるいは必要にせまられて習得した商人かだ。
そんな国にいるために、リオンは読んだり書いたりした経験がない。ジョカとの授業をのぞいて。
ある程度概要を書いたところで、ジョカは筆をおいて隣を見やった。
「リオン、そろそろ夕食にしないか?」
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