ジョカは三日で教本を書き終えた。
なんせ子ども向けの本なので、ほんの十数頁しかなく、量が少ないのだ。
それでもリオンはしばらく教本を見入ったあと、あれこれとジョカにたずねた。
全面漢字で埋め尽くされている一枚の紙を想像してみてほしい。
その紙が何枚も重ねられ、束ねられ、一冊の本となっている。
リオンはその本の最初の一頁を開き、読み方、意味、文法などジョカを質問攻めにした。
ジョカは、いつもリオンに教えているように、細筆でまず漢字の羅列のなかの固有名詞を○で囲んだ。
「これが固有名詞な」
「ああ」
「で、次。これが普通名詞。机とか布とかそういうの」
今度は点線で囲む。
「そして、これが動詞」
今度は傍線を引く。
「一見して漢字しかない見づらい文面も、こうして解体するとわかりやすくなるだろう?」
リオンはじっと食い入るように見ていたが、頷いた。
「……わかった。ここは、病人の診察をするときは、まず手を洗うこと……と書いてあるのか?」
「そうそう。固有名詞を除けば、この本にはお前に教えたことがある動詞しか使ってないよ」
その言葉を受けてリオンは再び書面に目を落とす。
そして顔をしかめた。
「目がちかちかする……」
「漢字を見慣れていないからな。いや見慣れてても結構きついか」
ジョカは言ってすぐに翻した。
「簡略な表音文字に慣れた人間から見れば、漢字って本当に見づらいからな。しかもこう全面漢文だけだとなおさら」
「おまけに字面が真っ黒だし」
「諦めろ」
ジョカはにべもなく言った。
リオンの愚痴はよくわかるが、それを含めて言語の特色というものだ。
リオンはその後も眉間にしわを寄せながら、それでも最後の頁まで目を通した。
ジョカはそれを見守る。
これはリオンの目的を考えれば、絶対にやらなければならないことだ。
リンカは「基本的な」読み書きでいいが、リオンは違う。
難解なことでは折り紙付きの役人の行政文書も読めるだけの教養を身につけなければならないのだ。
役人を巻き込もうと思うのなら、それが絶対的に必要だった。
もちろんジョカも手伝うが、基本的にこれはリオンのやりたい事だ。
手伝ってほしいと言われれば手伝うが、そうでなければ放っておく。そういういつもの姿勢でいるつもりで、リオンもそれを承知の上だろう。
そして、リオンは自分の我が儘にジョカを巻き込むことを是としない性格なので、何とか自分一人でできるようになろうとするに違いない。
そして、三日の間にリオンもある程度調査を進めたらしい。
いつぞやも思ったが、リオンの愛想の良さと調査能力は驚嘆に値する……ような気がする。
なんせ、見るからに西方人の外見で、地域の人々から聞き込み調査をやってのけるのだ。
いくら万国共通で女性は美形が好きだからと言っても、それに加え、男色家と思われているので警戒心が働かないとは言ってもだ。
いつもどおり、夕食の席でリオンは自分がやったことをジョカに報告した。
「先日も言ったが、借金をしているのは二十七人だ。金額も聞き出した。合計しても、大した金額じゃない。でも……」
「でも?」
「金をあげるのはとても簡単なんだけれども、それで先に進む気がまるでしないんだ」
曇った顔で、リオンは相談した。
「経験が?」
「いや、あの女性を見て」
「……ああ、あの女ね」
リオンは頷き、真顔で言った。
「施しが欲しいのならくれてやろうかとも思ったんだが、どう考えても事態が好転する予感がまるでしない」
リオンは貧者に施しをすること自体に抵抗はまるでない育ちだ。
彼女には子どももたくさんいる。子どものためと考えれば施しをすることも選択肢に入る。
だが、さすがにあの女性に金をやってもどうにもならない、と思ったらしい。
「彼女に金をやっても子どもの衣服や教育や食事に金がまわることはなく、彼女の情夫か彼女の懐に行ってそのままな気がして」
「俺もそう思うよ」
「……やっぱりあなたもそう思うか。じゃ、子どもたちに現物給付がいちばんいいかな。あの子たちを助けるのは、まだまだ時間がかかる。それまでの間に餓死したら元も子もない」
「いや、これからもずっと現物給付でいいんじゃないか? 家父長権は、強いぞ。どれほど近所で評判の酷い母親だろうとだ。子どもを引き離そうとすれば、したり顔で『親から子を引き離すなんて~』とか、『まさか本当に殺すはずがない、しつけを誤解しているだけ』とか言い出す輩が沢山出てくるんだ」
「でも、そうなったらあの子たちは今のまま成長するということだろう? 同じことのやり直しにしかならない気がする」
ジョカは瞬いた。
ときどき、リオンの鋭さには驚かされる。
「……そうだな。そうなるだろうな。貧困の拡大再生産にしかならないだろう」
「拡大再生産? よくわからないが、繰り返しにしかならないから、そこを断ち切らないといけないと思うんだ」
ジョカは言いかけた言葉を呑みこんだ。
――だから、何でそれをお前が。
リオンの言う事はまことに正しいのだが、ジョカの感覚としては自分たちはこの街に永住する覚悟も何もなく、危険が迫ればすぐにでもとんずらするつもりなのだ。流民として、嘲り罵られるままの生き方。
そういう大きな問題は、この街の人間自身が解決すべきではないか。
しかし、一方で、この問題がこの街の住民のあいだで放置されつづけてきたことも確かだ。
異邦人で、しかも極めて慈悲深く、他人に施しをすることにいかなる抵抗もない人格のリオンだからこそ問題解決に自分の労力と財産とを投入しようと思うのであって、普通なら見て見ぬふりして終わりだろう。
優しい人間が不幸な子どもに手を差し伸べることがあったとしても、隠れて時々ご飯を食べさせるくらいが関の山に違いない。
――まあ、いいか。
ジョカは考えた末、いつも通りに反対しないことにした。
リオンの慈善活動は、この土地の人間の彼らへの反感や敵愾心を和らげるという意味で、プラスになるだろう。巡り巡って別のところで別の反感や敵愾心を抱かれるかもしれないが。
「ジョカ。どうすれば、あの子どもたちは親の背を追う事なく生きていける?」
「いちばん上の子と話したか? それだけの人数だと、いちばん上はある程度の年だろう?」
「いや、まだ話をしていない」
「じゃあ、話をしてみるところからだ。俺も噂で聞くばかりでその子の性格とか知らないし。お前の目から見てどうかが大事だ」
リオンが戸惑いを隠さずジョカを見た。
「ん? 何だ?」
「いや……こうすればいい、とかそういう方法論はないのか?」
「人による。悲しいほどな。いいか、リオン。お前だって交渉の時、人によって言い方とかやり方を使い分けるだろう? 援助も同じだ。どんなものが良いかは、人によるんだ。悲しいほどな」
「……わかった……」
ジョカの懸念は正しくリオンに伝わったようだ。
神妙に、リオンは頷く。
「お前、強者にはとことん強くなれるけど、弱者には弱いからなあ……。特に飢えた子どもなんてリオンが一番弱くなる相手だろう? ごはんちょうだい、って集団ですがられて、振り払えるか?」
リオンは困った顔で沈黙した。
ジョカとしても、想像しにくい。
リオンが子どもに暴力的手段で対処するところというのが、非常に想像しにくいのだ。
リオンは、多数の人間に群がられていても、すぐに跳ね除けるだろう。それも苛烈なやり方で。
だが、それが子どもになると、とたんに想像すらもできなくなる。
「できるだけ、そういう状況にならないよう振舞う。気をつける」
「そうしてくれ。泥沼化したら逃げるつもりだし、その場合お前に拒否権ないから」
ジョカはにこやかに言い切った。
リオンも酢を飲んだような顔になったが、反論はしなかった。
ジョカの職業は「治療師」なのだ。その後の運搬がたいへんなのでできれば回避したいが、いざとなれば一服盛るなりなんなりいくらでもやり様がある。
それでもリオンの行動を阻害しないあたり、ジョカも最大限譲歩しているのである。
閉じ込めたら、リオンの心が死んでしまうから、やらないだけで。
そしてジョカがリオンを止めないのにはもう一つ理由がある。
リオンのことを、ジョカは究極的にはあまり心配していないのだ。
異邦人の身で、デリケートな地域の問題に介入する……冷静に考えれば危険がないはずがないのだが、何となく、根拠らしい根拠はないが、ジョカはこう思っている。
――リオンはだいじょうぶだと。
その気持ちの出所を探ってみると、非論理的な理由と、論理的な理由と、両方にいきつく。
論理的な理由の方は、確信できるものではないがわかりやすいものだ。
いわく。
――リオンに嘆き呪い悲嘆に満ちた死を、ジョカの『上司』が与えるはずがない。
超常の力による救済があると確定はできないが、たぶんあるだろうとジョカは推測している。
リオンがこの世を呪いながら死んでいった場合、魂が高確率で歪む。
これは、モチベーションの問題だ。
憎悪と怨嗟に満ちた魂が、素直に協力するはずもないのだ。
その憎悪を洗い流そうと魂を洗浄するのは本末転倒というもので、魂を洗浄したら、リオンの人格それ自体が綺麗さっぱり消えてしまう。
そして、生(き)のままの魂に、優劣はない。右にある魂も左にある魂も品質は同じだ。
よって、たぶん、いざとなれば上司の助力があるだろう、と思っている。もちろん、あてにするのは心もとないので自助努力が絶対の前提だが。
そしてもう一つ、非論理的な理由は、言葉にするならリオンへの信頼、になるだろう。
リオンなら何とかできるだろう、という信頼があるのだ。
頭で考えれば、リオンは西方人だしよそ者だし流民だし、どうにもならない状況の方が多いだろうと思うのだけれども、リオンへの信頼感はジョカの心の中に広がっていて、それが根拠のない『リオンなら大丈夫』という思いに繋がっていた。
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