ジョカ幽閉中の出来事です。
ルイジアナ王宮の奥深く、ごくわずかな人間しか寄り付かない場所に、ひとりの人間が住む部屋がある。
現在、その部屋について知っているのは地上にたったふたり。
ルイジアナ王国国王と、その直系。正嫡の第一王子にして王位継承権第一位のリオンのみである。
ルイジアナ王家の秘中の秘である秘密であった。
どういうわけか、その部屋までの道には誰もいない。
リオンが自分の部屋からでてその部屋まで行く間、途中の分岐までは無数の人間とすれ違う。
しかし、最後の分岐を越え、先にはその部屋しかないという道に入ったとたん、人間は姿を消す。道には綿埃が積もり、小汚くなる。
使用人も、貴族も、それに仕える従者たちも、誰一人としてその道を通らないのだ。
しかし、一体どうしてこの道だけ人が寄り付かないのか?
確かにこの部屋はルイジアナ王宮の秘中の秘である。しかし、広いルイジアナ王宮を掃除する下働きの人間たちは自由にあちこちの部屋に入り、廊下を通り、掃除をしている。
彼らにわざわざ「ここに近づくな」と命令でもしているのだろうか?
いやそんな命令は、それこそ愚かだ。どんな馬鹿でも「ここに何かある」とわかるではないか。
いったいどういうからくりだろうか。それに、確かに薄汚いが、まったく掃除をしていないにしては綺麗ではないか?
――と、心ひそかにリオンが疑問に思っていると、意外なところから答えが飛び出た。
ルイジアナ王家の秘中の秘は、ひとりの人間の姿をしている。
黒ずくめの服を着た、外見は二十代の年若い黒髪の青年である。
名をジョカという。その彼がリオンの疑問に答えたのだ。
「ああ、この道は見えないぞ」
「……は?」
「ここにこの部屋がある事を知り、そこへ行くという意識をしっかりもって近づかない限り、この道は壁に見えるんだ」
「……なんだそれは。人の目を騙しているということか? しかも条件づけをして? 何をどうやってそんなことができるんだ?」
「魔法で」
ジョカは簡潔に答えた。テーブルの上の、ジョカ自身が淹れた紅茶を口に運ぶ。
リオンは愚問を悟った。額を押さえる。
リオンは若干十四歳の、眩しいほどの金の髪と青い瞳の美しい少年である。そのリオンがこの部屋に週に一度通い、ジョカとこうして会話し始めて二年になる。
ルイジアナ王家の繁栄の源は、ジョカだ。
彼は、魔法使いである。原因不明の病によって世間から魔法使いが消えた今となっては最後の生き残りの。
だから王宮の奥深くに彼の部屋を作り、厳重に隠しているのだ。
ルイジアナ王家は、世界で唯一、魔法を手にしている一族なのである。この世の春を謳歌しているのも当然だろう。
「どういうからくりなんだ?」
「ふむ」
ジョカは考えるように腕組みした。
リオンとジョカがついているのは入口入ってすぐの小さな丸テーブルで、その上には紅茶とお茶菓子が載っていた皿がある。皿の中身はもうとっくにリオンの胃袋に入ってしまったが。
「人間の目は、極めて錯覚を起こしやすい不安定なものだ。……ということを知っているか?」
「いや? そうなのか?」
「そうだ。色の誤認が最も判りやすい例だな。例えば……、そうだな」
瞬時にジョカの手の中に一枚の紙が現れた。
もうすでにリオンは慣れていて、驚くこともない。
最初に見たときは仰天するほど驚いたが、週に一度、ご機嫌伺いにジョカのもとを訪れるたび、忽然と物が現れるのを見ているのだ。さすがに慣れた。
ジョカはその紙にさらさらと塔の絵を描く。
そして絵の具まで取り出してちょんちょんと彩色する。
何だろうと思いながら見ていると、ジョカは塔の影が落ちている地面の色を塗り、そこから少し離れたところに同じ色を置いた。
「……え?」
同じ絵の具だ。同じ絵の具で塗るところをリオンはこの目で見ていたのだ。
だったら同じ色に決まっている。なのに。
「王子、この色とこの色。同じ色に見えるか? 塔の影が落ちている地面の色と、この色だ」
「……同じ、色、のはずなのに……」
「着色するところを見ていただろう? 同じ茶色だ。でも、そうは見えない。なんでだと思う? お前の脳は、地面に塔の影が落ちているとそう認識しているからだ。だから、自動的に影のぶんの色を抜いた色として、この色を認識している」
リオンは何度も何度もその一枚の紙の上の二つの茶色を見比べる。
そう説明されてさえ、同じ色には見えない。
「お前の脳…頭は自動的に影の分も考慮して、色を認識してしまう。そう分かっていてさえ、違う色に見えるだろう? 人は錯覚しやすいんだ。人が思うより余程な」
「この部屋への道も、同じような錯覚を利用していると?」
「魔法でちょっとその錯覚を強化しているけどな。この部屋への道は、何も知らない人間が見ると壁に見える。道に見えるのは、ここに道があると事前に知っている人間だけだ。ただし、気をつけろよ。あくまでそれが効くのは『何も知らない』人間にだけだ」
「知っている人間には効果がない……か。もし私の後ろを誰かが尾行したら?」
「俺がかけた魔法はここへの道を認識できなくするだけだ。お前自身はそこにいて、誰が見ても認識できる。普通に道に入っていく、という風に見えるはずだ」
ジョカの魔法は尾行されている場合は効果なし、と。
リオンは頭に書きとめ、ふと疑問を覚えた。
「道を掃除しているのはあなたか?」
ジョカは顔をしかめた。
「使用人も誰も通らない道だからな……。放っておくと、埃が堆積してとんでもない状態になるんだ。お前、百年も掃除されていない場所がどうなるのか知っているか?」
おまえ。
リオンはムッとしたものの、顔にも出さずに流す。なんせ相手はルイジアナを三百年以上守護している守護神である。
むろん、他人が同じ言動をしたら貴族であろうと許さない。まだ十四歳だが、リオンはこの国で実質国王に次ぐ第二位にあたる身分なのだ。
リオンの機嫌の問題ではなく、次代の国王に対する不遜な態度を見逃せば、王家の威信にかかわる。王族への無礼は許されない。そういう認識の一致があればこそ、人は王家を畏怖するのである。
しかしここはジョカの部屋であり、他の人間はひとりもいない。
それに何より、リオンはジョカの無礼には慣れていた。
「絨毯に指と同じ厚みの埃が溜まっているところを想像してみろ。足を持ち上げるたびに靴に引っ付いて巨大な埃が持ち上がって、それが落ちて細かな埃を撒き散らすんだ。見ている方がたまらんぞ」
「見てる? 見えるのか?」
「……王子。俺を何だと思っている?」
彼は、世界で唯一の魔法使いである。
「……私が悪かった。じゃあ掃除はあなたが?」
「一年に一回ぐらいな。俺は汚いのが大嫌いなんだ」
リオンは非常に納得した。
この部屋は衝立ばかりで人の視線を遮る。それでも部屋に埃一つ落ちていないのはうかがい知れる。
そういう綺麗好きな人間からすれば、見るだけで不愉快な光景なのだろう。しかも場所は自分の部屋のすぐ外だ。
そこで、リオンは気づいた。
「何も知らない人間にとっては壁に見える? なんでそんな魔法を」
リオンはそこで、言葉を止めた。
――あなたにとっては、自分の存在を多くの人間に知らせた方が、都合がいいんじゃないのか。
それは聞いてはいけない気がした。
ジョカとリオンの関係は、微妙な均衡のもとにある。
その事実を指摘したら今のこの平穏は、崩れてしまう。そんな予感、いや確信があった。
ジョカの正体は、誰も語ってくれない。だが。
――世界でたったひとりの魔法使い。
――それを王宮奥深く住まわせているルイジアナ王家。
――陽もささない部屋のなか、たった一人で暮らしているジョカ。
それを重ね合わせれば、自然とわかろうというものだ。
ジョカは、リオンが何を考え、何を躊躇してやめたのか、完全に分かっている顔でリオンを見やり、口角を歪めた。
――嘲笑である。
週に一度、リオンがこうしてジョカのもとを訪ねるようになってから、二年がたつ。
二年は、長い。十四歳でしかないリオンにとっては非常に。
リオンに対して毒だらけのジョカの対応は否応なくリオンの忍耐力を鍛えたが、同時に、ジョカの立場への洞察をも深めることになった。
ジョカにとって、デメリットでしかない魔法をかけた理由。そんなもの、聞く方が馬鹿だ。答えなんて、わかりきっている。
命令されたからだ。歴代のルイジアナ王族の誰かから。
そしてどうして命令したのか。これも決まっている。
――ジョカを助け出させないためにだ。
いつか遠い未来で、偶然この牢獄に迷い込んだ誰かがジョカを解放するかもしれない。その未来を限りなく低い確率にするために、魔法はかけられた。
どんな気持ちでジョカはその魔法をかけたのだろう。
近隣随一の繁栄を誇るルイジアナ。
それを支えているのは間違いなく目の前のこの魔法使いだ。
だが、ルイジアナの繁栄と、ジョカの幸福は両立しない。
そして――。
リオンはジョカの嘲笑を真正面から受け、青ざめていた。
魔法使いを幽閉し、その力を搾取しつづけるルイジアナ王家。
それに気づきながら、解放しない自分。
――どんな侮蔑を受けるより、自分で自分の誇りを捨てる方が、誇りは傷つく。
ジョカの嘲笑に対し、何も反論できない自分自身に、リオンは傷ついていたのだった。
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