2016年3月25日、拙著「白薔薇王女は政略結婚で恋をする」が発売されました。
出版社さまの了解も取れましたので、冒頭を公開させていただきます。
第一章 見合いの席にて「すまないな、シェリナ」
「ごめんなさいね、シェリナ……」
縁談の話をして詫びる両親に、シェリナは笑ってかぶりを振った。
「いいえ、お父様、お母様。わたくしは自分がこの国の役に立てることが嬉しゅうございます」
シェリナは長い銀髪と
菫色の瞳をもつ美しい少女だ。年は十七。女性にしては長身で、すらりとした肢体を包むドレスは瞳に合わせた紫色。しなやかな肢体は引き締まり、それでいて胸部はしっかりと女性を主張していた。
花のかんばせは苦境を前に、陰るどころかいっそう薫り高く彼女の気高さを漂わせている。
白薔薇姫、と国内外で賞賛されている美姫だった。
シェリナは晴れやかに笑うと、妹に向き直った。妹は十歳。小さな顔はくしゃくしゃで、目には涙が浮かんでいた。
「お姉様……?」
「心配しないの。大丈夫よ、イリーナ」
妹はシェリナとおなじ菫色の瞳だが、妹の髪はシェリナより色が濃い。シェリナのようなプラチナブロンドではなく、黄色に近い金髪である。その金髪を撫でた。
ラマ神聖王国にいる王女はシェリナとイリーナのふたり。シェリナにその話が廻ってきたのは妥当なことだった。
今年、ラマ神聖王国は
蝗害で壊滅的な被害を受けた。
作物だけでなく、植木も衣服も木工品も…根こそぎやられてしまった。バッタは木を食わないが、かじるくらいはする。泥土で藁を固めた粗末な家などは、それこそ家ごと食べられたらしい。
そこまでやられると、農業以外の産業も壊滅状態になる。
シェリナは、迎えにきた護衛の騎士たちに守られながら王城まで歩いた日の事を生涯忘れられないだろう。
通常のバッタは、緑色をしている。それが蝗害のときだけ、緑から茶色へと色を変えるのだ。
青いはずの空は茶のバッタによって覆われ、陽は遮られ陰っていた。
太陽が、バッタによって、陰ったのだ。
そんなことがありえるとは、シェリナは自分で体験するまでは信じられなかった。話を聞いても誇張か嘘だと思ったに違いない。
下を見れば地面もまたバッタで埋まっていて、まだ生きているバッタを踏むたび、バッタは抗議するようにもがき、羽根を震わせ、シェリナをぞっとさせた。
最初は一歩歩くごとに身震いしたのだが、すぐにそんな感覚は麻痺し、何も感じないようになった。自分でも感じないようにしながらただひたすら歩いた。
バッタの襲来は、恐ろしいことに十日も続いた。
十日もの間、ラマ神聖王国の空をその邪悪な色で染めたのだ。
茶色いバッタは災いの使いとしてエディリバラでは心底忌み嫌われているという。
今ならシェリナもその気持ちがわかる。そして国民もわかるだろう。
ラマ神聖王国の民にとって、茶色いバッタは人生で最も忌まわしいものとなっていた。
街には家さえも食われ、明日食べるものもない貧民があふれた。
バッタを焼いて食えばいいという意見もあったが、茶色いバッタは食料としても不適で、いくら食べたところで腹を壊すだけでろくに栄養にならない。蝗害のさい、バッタを腹に詰めて餓死した人間は数えきれない。
人間が生きていくためには、バッタ以外の食べ物が必要なのだ。
まずは食料。次に、来年の蝗害をふせぐための対策を講じる費用が必要だった。大量のバッタは大量の卵を産む。蝗害の特徴は、数年つづくということなのだ。
そんな窮状にあるこの国に、一つの縁談が持ち込まれた。
ラマ神聖王国は、この大陸にあるほとんどの王家の祖だ。今ではその領土のほとんどを失い、北東の片隅に逼塞する国となってしまったが、それでも昔からの名称である神聖王国を使い続けられている。
神聖王国なんていういかにも偉そうな名前をこんな小国が使えているのは、遥かな昔、その名前で大陸の覇権を握っていたからだ。
その血統には無形の価値がある。目に見えないけれども多くの人がありがたがる名誉が、そこにはあった。
ラマ神聖王国の王女にして、その美しさが音に聞こえた白薔薇姫。
シェリナの元には前から多くの縁談が持ち込まれていた。その中のどれを選ぶか、父王は悩んでいただろうが、今のこの苦境を打開できるほどの多額の援助を引き出せる相手となると、一人しかいなかった。
蝗害はラマ神聖王国だけではなく、周辺諸国を一気に呑みこんだのだ。あの茶色いバッタが食い尽くしたのは、とてつもない範囲にのぼる。
降るようにあった縁談は激減し、残った縁談も援助を期待できるものは少ない。結局、ケタ違いの高額の援助を約束した相手との見合いが決まった。
相手はハンルーザ商人同盟の首領――商人である。
名はルフト・アッカーマン。
通常なら、王女が爵位も持たない商人に降嫁することなどありえない。家格の差を埋めるために相手が提示した金額は、窮地にあるこの国から見れば喉から手が出るほど欲しいものだった。
ハンルーザ商人同盟は、元は非力な商人が協力し合ってできた商人組合の一つだ。だが、結成から百年以上が経った今、その影響力は一国に匹敵するか勝るほど大きくなった。北の海と大地の経済は、彼らのものだった。
しかし所詮は商人。爵位も持たず、彼らの力を知らぬ者から侮りを受けることも多い。彼らは、自らの立場を補強する権威を欲していた。
何といっても、王家の縁戚という金看板をありがたがる人間はどの国でも多い。
それがラマ神聖王国の王女となれば、文句なしだ。
――そういった次第で、この縁談はととのったのである。
両親に縁談を告げられた後、シェリナは見合いに向けて準備をしていた。
「アンジェ、どうかしら。殿方に好まれる姿だと思う?」
姿見の前で、体をねじって自分の姿を点検する。
今の彼女のドレスは、華やかな黄色のなかに豪奢な白のレースが縫い付けられたものだ。
「スカートの裾は広げなくてもいいのですか? クリノリンで広げた方が見栄えがいいと思うのですが……」
この時代の女性の感覚では、女性のスカートは裾が広がっていればいるほどいい。クリノリンという骨組みまで出てきたのはそのためだ。
「でも、ルフト様のお好みはそういった女性ではないみたいなの。身上書を見たところ、独立商人として活躍してそれを先代の長に認められ、幹部として引き抜かれたそうなのよ。そこから長に上り詰めたんですって。つまりは平民出身の方よ。これまで交際のあった女性の傾向から見ても、クリノリンを使うような貴族の女性はお好みではないわ」
――ルフト「さま」。
シェリナの言葉に思わずアンジェが口走った。
「商人ごときに、姫様がそこまで配慮する必要があるんですか」
シェリナはゆっくりとアンジェを振り返った。
自分の失言を自覚しているのか、アンジェは唇を噛み、俯いている。だが、その背後の侍女たちも、思いは一緒らしい。
シェリナは腹心の侍女にして乳兄弟の肩にそっと手を置き、囁いた。
「ね……アンジェ。もしもわたくしがこの後のお見合いでルフト様に嫌われたら、この国はどうなると思う?」
「……申し訳ありません。失言でした」
「この縁談は、この国にとっての希望なの。絶対に気に入られなくてはならないのよ。わたくしに、これほどの値を付けてくれた方は他にいないのですもの」
「姫様……」
「わたくし、自分が誇らしいわ。そして、お申し出をしてくださったルフト様にも感謝しているの。わたくしひとりだけでこの国が立て直せる。そんな機会を与えて下さったんだから」
商人から王女への縁談。通常ならば一蹴される申し出も、今のこの国は断ることなどできない。足元を見て……と憤慨する輩も多いが、シェリナは素直に感謝していた。
それだけの価値が己にあることに。その機会を与えてくれた縁談相手にも。
シェリナはアンジェと目を合わせ、うしろに控える侍女たちとも一人一人しっかり目を合わせた。
「この縁談は、絶対にまとめなければならないの。だから、ルフト様に気に入られるよう、どうか手伝ってちょうだいね」
しぶしぶながらも侍女たちが自発的に動き出す。
「姫様、髪飾りはこちらの方が……」
「ドレスもこちらの方がよろしいかと」
「いいえ、宝石類はやめて。華美なのはたぶん逆効果だわ」
「ですが、平民からの成り上がりなのでしょう? 宝石で飾ってこれまでの女とは違うと身分の違いを判らせた方がこれからのためにもよろしいかと……」
まばゆい宝石で身を飾った見るからに豪奢な美女に、平民ならば気おくれするだろう。初対面の印象は今後の関係にも重大な影響を及ぼす。立場上の優越を確保するためにもそうしろというのだ。
なにも分かっていない侍女に、内心苛立ちながらも顔には出さず、シェリナは根気よく諭す。
「駄目よ、お見合いは一回かぎりなのよ。確かに宝石で飾り立てたら高級感は出るけれど、無言で威圧しているも同じだわ。ルフト様はいかにもな『高貴な女性』にうっとりしてくれるような方ではないとわたくしは思うの。いいこと? わたくしの方が、相手に気に入られる必要があるの。逆ではないわ。それをわかってね」
シェリナは今回の縁談の本質を見抜いていた。
確かに、今回を見逃せば商人ごときが王家の王女を
娶る機会などないだろう。
けれども、ハンルーザ商人同盟から見れば、縁談が壊れたところで現状維持でしかない。
逆に、ラマ神聖王国側は今回の縁談が壊れたら後がないのだ。
だからシェリナは何度も身上書を読みこみ、相手の好みを把握した。
さいわいシェリナは美しい。美女を嫌う男というのもいるが、割合としては少数派だろう。
スタイルもいい。女性にしては背が高いが、ルフトはシェリナよりずっと背が高いので問題ではない。むしろ、長身の引き締まった肢体だからこそ、豊かな胸元とくびれた腰が映える。
「姫様、でしたらこちらのドレスの方が姫様のお胸が強調されていいかと思います」
「……そう、そうね。でも首すじが剥き出しなのはまずいわ。あまり豪華ではない細い金鎖程度の首飾りを出してくれる?」
「はい、こちらなどはいかがでしょう」
シェリナの持つ装身具の数は相当なものだ。シェリナの要求を満たすものだけでも五本出てきた。その中から、金鎖の中央に、小指の先ほどの小さく丸く黒い象嵌細工が施されたものをシェリナは選んだ。
その後もどういう衣装がいいか、侍女も加わっての検討は続き、シェリナの装いは完成した。
まず衣装は胸が強調されるビスチェタイプの深青のドレスだ。裾には白糸で花びらの刺繍が施されている。
首元には繊細な金鎖。シェリナの腰まである髪は上半分が結われて背後で留められ、半分は下にそのまま流した。
端正な顔は入念な化粧が施され、いっそう美しさを増している。
清楚で可憐、をコンセプトに選び抜いた姿だった。
出来栄えにシェリナは満足して頷き、侍女たちもホウッとため息を吐く。
「姫様。とてもお美しゅうございます。これならば、ルフト様も姫様に見惚れること間違いありませんわ」
アンジェの言葉にシェリナも微笑んだ。
「ありがとう。あとは、ルフト様が気に入って下さればよいのだけれど」
そんな会話を交わした一週間後。
シェリナは未来の結婚相手に引き合わされた。
その日、シェリナは朝から緊張していた。
シェリナにとっては何が何でもまとめなければならない縁談だ。そしてこの時代、見合いまでこぎつけた時点で、八割がた話は固まっている。だが、常に二割の例外はある。そしてシェリナの役目は、その二割を現実化させないことだった。
用意された部屋は中央に白い丸テーブルが置かれている。王宮も蝗害の被害にあったが、ルフトの訪問を前に、威信が保てる程度に大急ぎで補修した部屋である。
シェリナが緊張しながら一室で待っていると、先触れがやってきた。もうすぐ見合い相手が来ると告げ、それからすぐに扉が開いてふたりの男が姿を現した。
まず現れたのは、長い赤茶の髪を後ろで三つ編みにした背の高い男だ。そしてその後ろから、先の男のために扉を開いて押さえていたこげ茶の髪の男が入室する。
赤毛の男が、これから彼女が嫁ぐことになるルフトだろう。
身上書を読みこんだので、だいたいの容姿は知っている。予想とほぼ変わらぬ印象だ。
かなりの長身で肩幅も広く、その体格にまず驚かされる。赤毛で彫りが深く、黒い目は深く落ち込み、鼻はすらりと高い。眉は太く、眼光の強さが意思の強さを印象付けた。
百戦錬磨のたたき上げの商人らしく、全体的に野性味にあふれている。
強烈に男を感じさせる顔立ちは、猛禽類のような目が特に印象的だ。身に纏っているのは上等な毛織物でできた衣装だ。長首の白い上着に襟元がV字に切り込んだ上下一体型の黒い衣を重ね、その下は長いブーツを合わせている。
男の目がシェリナを見た瞬間、吸い寄せられるように止まった。
――私の姿は目を止めさせるにたるものだったようね。
それに密かな満足を感じながら、シェリナは座っていた椅子から立ち上がると、スカートの裾を持ち上げ、優雅に一礼した。
「はじめまして。本日はよろしくお願いいたします。シェリアーナ・フェデ・マリアナ・ラマと申します」
男も礼儀正しく返す――と思いきや、返答は予想外のぞんざいさだった。
「ふん、あんたが白薔薇姫か」
男はそう言ったのだ。
シェリナは(面に出さないものの)束の間、ぽかんとしてしまった。こんな粗雑な言葉づかいを王女のシェリナに対してした人間は、生まれてこの方一人もいなかったのだ。
ルフトはつかつかと歩み寄ると、丸テーブルの椅子を引き、シェリナの対面にどっかりと腰を下ろす。
「ふーん、確かに肖像画とおなじ顔だな。あんたが身売りにきた王女様か? 酔狂なこったな」
――身売り。
侮蔑的な言葉に後ろに控えていた侍女や騎士が
気色ばむのがわかる。
だが、シェリナはゆっくりと、その白い顔に笑みを作った。
――そちらが喧嘩を売っているのなら、こちらもそのつもりで対処するまでよ。
ひときわ美しい微笑をたたえたシェリナに、ルフトの目が不審げな光を帯びる。
「おっしゃるとおりですわ、ルフト様」
「……なに」
「我が祖国は現在とても困っております。それを助けられるのは、ルフト様だけ。わたくしは貴方のお慈悲にすがるために参りました。それが、何か?」
その程度の言葉では私を怒らせるには足りないと言っているのだ。
ルフトの太い眉の下の目が、ぎろりと動いた。
「……ふん。まんざら評判倒れってわけでもないらしいな。聡明で民を案じる心優しき姫か。確かに頭は悪くないようだ。適当に怒らせて破談にしようと思っていたが――少々腹を割ろう。悪いが、俺は最初っから、こんな縁談受ける気はなかったんだよ」
さすがに疑問を感じ、シェリナは可憐なしぐさで小首を傾げる。
「縁談の申し出は、ハンルーザ商人同盟の方から……と聞きしましたが?」
ルフトは大きな身振りで手を振った。
「ああ。そいつは間違っちゃいない。前々からうちの中には俺が結婚してないことを問題視する奴や、うちが何だかんだと軽んじられる事に腹立ててる連中がいるんだよ。そいつらがあんたんところに話を持ち込んだんだ。俺には事後承諾でな」
シェリナには商人組合の内部事情は分からない。だが、王城の中でも派閥争いはあったものだ。それを思い返し、そんなものかと納得することにした。
「ですが、事後承諾でも何でも、ルフト様はこちらにいらっしゃいました。ここでルフト様に断られてしまったら、わたくしは見合いの席で一体どんな無礼をしたのかと、どんな非常識な姫かと、そう声高に噂されてしまいます」
ルフトの顔が、きまり悪そうに歪んだ。
「……あー、そいつは悪いと思うが……」
「それにこのお話は決して、貴方がたに利のないものではありません。わたくしは、それほど魅力のない女でしょうか?」
「……ちっ、なかなかの交渉上手だな。わかった、白状しよう。俺がこの縁談に気乗りしない理由は、あんたのせいでもあんたに魅力がないせいでもない。あんたは確かに別嬪だし、俺も美人は好きだ。確かに悪い話じゃない。でもな、それもあんたが本当に俺の妻になるのなら、の話だ」
「どういうことでしょうか?」
「俺は、貴族や王家ってやつらをこれっぽっちも信用しちゃいない」
雷のような眼光が、シェリナを貫く。
「あんたら王家の人間は、俺たち商人を物言う動物だと考えてやがる。どんな約束をしようが平気で破る。そして言うんだ。自分たち高貴な人間を、商人ふぜいが契約で煩わすなど無礼千万……ってな」
シェリナは何も言わず、黙って強い口調で王家の不実をなじるルフトを見ていた。
彼は、実際にそういう目にあったのだろう。黒い瞳には強い光が宿り、それが憎悪と不信であることはすぐに見て取れた。
そんなことしない、とはシェリナにも言えなかった。シェリナに詫びた両親や、侍女の態度を見ればわかるとおり、王家の王女が商人ごときに嫁ぐのは、「屈辱」なのだ。
援助を受けたあと、王家がこれ幸いと約束を反故にする可能性は、ないとはいえない。
「これを白状するのは、あんたの評判にこれから傷をつけることになるからだ。確かに、あんたの言う通りだ。もっと早く断ればよかった。あるいは出向かなければよかった。ただ……ちょいとな、好奇心てやつに負けた。
巷で評判の白薔薇姫を、俺も一度見てみたい、その誘惑に勝てなくてな。悪かった」
潔く頭を下げたルフトに、シェリナは初めて好感を抱いた。
女性に謝ってくれる男は、とても少ないものだ。しかも、家庭内ならともかく、多くの人々が同席している場で。
しかし、困った。相手から申し出た縁談だ、シェリナはせいぜい相手の機嫌を損ねないように無難に過ごせばいいと思っていたのに、相手に結婚する気がなかったとは。
この状況を引っくり返すには、よほどの行動が必要だろう。シェリナは祖国のために、この縁談をまとめなければならない。何か手は無いものか――。
シェリナは考え、一つ提案した。
「……では、わたくしがルフト様との約束を必ず履行する、その保証があれば、ルフト様はこの縁談を受けてくださるのでしょうか?」
「はっ。どんな保証だ? 契約書をかわそうが、高貴な皆様方はいざってときはあっさり破ってくれるのは商人なら誰でも知ってるぜ」
「いいえ。もっと確実な保証です――」
シェリナは顔を上げ、その言葉を口にした。
「王家の姫として当然のことではありますが……私は生娘です。その純潔を今ここで、あなたに捧げます。それでわたくしはあなた以外の方に嫁ぐことはできません。これ以上の保証があるでしょうか?」
ルフトは硬直した。
見れば、背後に控えた侍女も騎士も固まっている。ルフトが連れてきた従者は言うに及ばずだ。
ルフトの硬直はたっぷり数秒つづき、ようやく言葉を絞り出した。
「……姫さん……本気か?」
「ええ」
決然と笑って、シェリナは立ち上がった。後ろにずらりと並んだ使用人に声をかける。
「みんな、悪いけど外に出てちょうだい」
「ひ、姫様!」
「命じます。出なさい」
抵抗する面々を部屋から出すと、シェリナはルフトの従者を振り返ってにっこり笑う。
「申し訳ないのですが、出ていただけます?」
「……あの、それは、ええと……。どうします? ルフト様」
従者が救いを求めるように主人を見て、シェリナは美しく微笑みかけた。
「公衆の面前であそこまで言って、その後ふたりっきりで部屋にこもった……。その事実があれば、たとえわたくしが何もされていないと主張しても誰も信じませんわ。わたくしは女として、致命的な悪評を受けることになります」
椅子に座ったまま、ルフトは弱り切った表情で頭をかき混ぜた。そのまま黙る。
いま、ルフトの頭の中では様々な状況が想定されているだろう。ここで断ったらどうなるか。利益と不利益。予想される未来図。
シェリナにとっても相当の覚悟が必要だった。彼女は彼以外との結婚を望めなくなるのだから。
とうとう、ルフトは手を挙げて降参した。
「……あーー。わかった。わかったよ。あんたの勝ちだ、姫さん。女にここまでやられちゃ、男は太刀打ちできっこない」
「では……」と従者がルフトに尋ねる。
ルフトは頷いた。
「ああ。年貢の納め時だ。結婚するよ。姫さんの覚悟と思い切りの良さの方が一枚上だった。まいった、まさか、そんな手で来られるとは思ってもみなかった」
「好奇心猫を殺す、本当ですわね?」
「ああ、確かにな」
ぐったりと椅子に座るルフトの様子にシェリナはおかしくなって口元に手を当て、くすくすと笑う。
敏腕と評判の商人の意表を突き、起死回生の一手で不利な状況を引っくり返した。その爽快感に、気が緩んでいたのだろう。
気がついた時には腕を取られ、抱きすくめられていた。
「――で、あんたはここで俺に純潔を捧げるんだよな? 姫さん」
肉食獣の眼差しが、至近距離にあった。
「あ……」
ぱたん。背後で扉が閉まる音がした。主人の指示を受けて、従者が部屋を出て行ったのだ。
「ここまで状況をお膳立てされちゃ、俺も観念するしかない。こっちが縁談を申し込んだって弱みもあるしな。――でもな、据え膳を断るほど、俺もできた人間じゃない。まさか嫌とは言わないよな。あんたが仕組んだことだ」
シェリナは声を絞り出す。声が震えた。
「い、言いません……ただ……」
「ただ?」
「わ、わたくし何も知らないのです……。どうか優しくしてください……」
一瞬呆けた様子のルフトだったが、すぐに低い声で笑った。
「いいとも。思い切り優しくしてやるよ。俺をはめた女はあんたが初めてだ」
<以下次章へつづく>
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