その日、あなたは体を引きずって、学校へと登校しました。
さすがに近所の人々もぎょっとして足を止める中、あなたは拾った木の棒にすがって、足をひきずるように学校へ向かいました。
家族が起きてきて、廊下で倒れているあなたを見たら何が起こるでしょう。
目障りだと、また暴力が始まるに違いないのです。それから逃げるために、あなたは陽が昇るなり急いで家を出たのでした。
……実際はあなたの家族は過度の暴力で死なしてしまうほど加減を知らない人間ではなく、特に頭の冷えた弟は朝起きたら治療をしてやろうという心算だったのですが、それが実現することはありませんでした。
学校の訓練場で、あなたに会ったダリルは驚いて立ち止まりました。
一目見て、苛烈な暴力を受けたと判る姿です。
銀の髪はどす黒い血で所々固まり、襤褸の服には血の染みがあります。そして何より、美しかった顔の右半面は大きな痣と腫れあがった瘤で破壊されていました。
元の顔が人形のように整っていただけに、今のどす黒い顔は衝撃でした。
「な……っ! ど、どうした? 何があったんだよ!」
ダリルは駆け寄り、あたふたと、懐をあさると、魔法が込められたポーションをあなたに注ぎます。
最もひどかった顔を除いて痛みがやわらぎ、消えていきました。あなたはほっと、安堵の息をつきます。
「……嫌だと言ったら、弟を、怒らせてしまって」
それで、ダリルは全てを理解しました。
そう、少し考えれば、これまで従順だった玩具から拒絶された相手がどう思うかは明らかです。
「ごめ……ごめん……! お、俺が、お前の事情も良く知らず、あんなこと言ったから……!」
曲がりなりにも、家の中にいた唯一の味方が消えてしまったのです。ダリルの、浅慮な忠告によって。
あなたはかぶりを振りました。
ダリルが、あなたのために言ってくれたことは判っていました。いつも空腹のあなたのために毎晩食事をさせてくれることも、わかっていたのです。
「ダリルのせいじゃない。それより、相談したい事がある」
「な、なんだ?」
ついに、逃げ出す気になったのか――そういう期待を込めて問い返したダリルに返ってきたのは、予想外の答えだった。
「『魔』が出た」
ひゅっと、息を吸い込む音がしました。
ダリルの呼吸です。
そう、あと二日後には交重の月が始まります。すでに、魔は活性化しているのです。
町中でも、会って不思議ではありません。
先ほどのポーションも、万が一を想定した叔父から贈られたものでした。
「――階位は?」
魔法学校は、魔と戦う人員を育成する場所。
魔の種類を頭に叩き込み、識別できるようにすることも勉強のうちでした。
あなたはかぶりを振ります。
「わからない。でも第五階位以上は確実だ」
「その根拠は?」
冷静に、ダリルが問います。
「人の言葉をしゃべった」
「なるほど。第五階位以上だな……」
深刻さに、声が陰ります。
魔は二十の階位に分けられ、第一階位が最も高く、二十が最低です。
そして、人語を操る魔は第五階位以上。二十の階位のうちの、五階位です。相当高位の魔でした。
「良く生きてたな?」
第五階位以上の魔といえば、十人以上の魔法使いを擁した一個軍団をもってあたり、倒せるかどうかというものです。
あなたのような何の力もない子どもが遭遇して、生きていられるようなものではありません。
「契約を、持ちかけられた」
それを聞いた瞬間、ダリルはあなたを担ぎあげ、訓練場から飛び出しました。
突然のことに、あなたはダリルにしがみつきます。
ダリルは冒険者志望で体を鍛えていますから、あなたの棒のような体など何でもないようで、実に軽々と運びました。
そして駆けて駆けて――学校の敷地の隅っこまで来ると、ダリルはあなたを下し、厳しい顔で問い詰めました。
「――なにを、言われた?」
冒険者の叔父から色々な話を聞いていたダリルは、それを知っていたのです。
魔は、人に誘惑をささやくと。
心の間隙につけ込み、仲間に引きずり込むのだと。
こんな話を、いつ誰が来るともしれない訓練場でするわけにはいきません。そのためにダリルはここまで移動したのでした。
ダリルの厳しい目線にも、あなたは何も感じていない様子で答えました。
「両親の命を捧げれば、力をやると」
予想外の言葉に、ダリルは絶句しました。
「私は、捧げると言えばいいと。それで、力をくれてやると言われた」
あなたは、首を傾げます。血で固まった銀の髪が揺れ、その無惨に腫れあがった顔が、ダリルに良く見えました。
「私は、契約に応じるべきだろうか?」
「……っ、だ、駄目に決まってるだろ」
その声は、ダリル自身も気がつくほど、弱いものでした。
魔と契約してはならない。その拒絶感から出てきたもので、建前でしかないと、気がついてしまうようなものでした。
あなたのがりがりの体や、これまでしょっちゅう痣を(これほどひどいのは初めてですが)つけてきたこと。そして、何より、あなたの欠落が、あなたの受けてきた仕打ちを雄弁に語っていたのです。
ダリルは、あなたの両肩を掴んで目を合わせ、躊躇いを振り切って絞るように尋ねました。
「ごめん、残酷な事だけど、一つだけ、聞かせてくれ……。お前は、自分の両親を、どう思っている?」
「何とも思っていない」
いつもどおりの、滑らかな返答でした。
「……」
「反対していた弟を怒らせてしまったから、私は、予定通りに妾に行くことになった。努力して、魔力が上がれば、前のように接してもらえるのではないかと……そう思っていたけれど、もう、私にだってわかっている。いくら努力しても、私が弟に追いつくことは、決してないだろう」
努力して、努力して、努力の果てに見えたのは、才能ある者には決して敵わないという「現実」でした。
「もう、どうでもいい。父が育ててやった恩を返せ、金を返せというのなら、それでもいい。あなたが言ったように、逃げることも考えたけれど、疲れてしまった――……」
そこにあったのは、諦めでした。
努力の果てに見えた虚脱でした。
「ダリル。私は……壊れている。それはわかる。私は、私がわからない。ダリル、あなたなら同じ取引を持ちかけられたら、即座に断るのだろう。でも、私は、わからないんだ。どうするべきか、迷っている私は、両親を、憎んでいるのだろうか?」
ダリルの顔に、深刻な哀れみが浮かびました。
「……憎んでいいんだ。嫌っていいんだ。お前だって、痛いのは嫌だろう? 殴られて、心が痛かっただろう? 嫌っていいんだよ! お前は、親を嫌っていいんだ!」
「嫌う……」
ぽつりと呟き、あなたはかぶりを振ります。
「わからない。私は、これまで、育ててもらって……恩返しを、しないといけなくて……。嫌うということが、よく、わからない。でも、魔が……力をくれると言って……、心が揺れたんだ」
「魔の言うことなんて、信用するな! お前をたぶらかすための甘言に決まってるだろう!」
「ちがう。魔は、嘘をつけない。だから、聞いた。隙間を潰した。言い抜けられる道は全て閉ざした。魔は、私に……魔力をくれると確約した。両親の命さえ捧げれば、偽りなく、私に魔力をくれると」
――魔は、人の心の隙間に入り込む。
ダリルは戦慄がぞくぞくと背中を走り抜けるのを感じながら、必死に言葉を紡ぎます。
一度魔と契約したら、もう二度と人間の側に戻れません。
「駄目だ……駄目だ! どんな奴でも、お前の親だろう? 親を殺したらお前は一生悔やむ。どんな親でも親は親なんだ、殺しちゃ駄目だ!」
「……どんな親でも、親……?」
あなたは、ことりと、首を横に傾けました。滑らかに、問いかけます。
子を愛する親を持った友人へ。
「子どもを虐待して、幼児趣味の男に売る親でも親か」
「……っ」
「ああ、そうか……」
あなたは、自分の両の手を見下ろしました。
「いま、わかった。私は、両親が憎かったんだ。やっと、わかった」
時として、何気ない言葉が、人生を変えることだってあります。
「どんな親でも親は親」。
ダリルに投げかけられた言葉に、心が反発しました。
――そうして、あなたはやっと気がついたのです。
随分と昔から、両親を憎んでいたことに。
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