「な、なら、逃げよう! 魔と契約なんかしなくたっていいじゃないか! 糞みたいなお前の親を放って家から逃げればいい! 仕事なら探してやるから!」
たぶん、それは、最良の未来なのでしょう。
虐待する親の元から逃げ出し、住み込みで働く。――けれど、聡明なあなたは、気が付いていました。
弟は追って来るでしょう。
理由はわかりません。ですが、あなたに執着しているようです。
ダリルの名前すら調べていたのです。突然あなたが姿を消したら、ダリルの関与を思い浮かべないはずがありません。あなたにとって友人と言えるのは、この奇特な少年ぐらいのものなのですから。
父親も……追って来るでしょう。もう、金は貰っていたようですから。
ダリルの誘いはとても有難いものですが、この優しい気のいい友人に、多大なる迷惑を賭けてしまうことは間違いありません。
「ダリル。あなたなら、自分の子どもを、殴って楽しいという父の気持ちが、わかるだろうか?」
ダリルの顔が歪みました。瞳がさまよいます。困惑と混乱、躊躇。良くも悪くも、ダリルは幸せな家庭で育ったのです。
彼が、あなたの親の気持ちを理解できないのは、当たり前です。あなたの語る親は、想像の慮外にありました。
……あなたに、ダリルの親の気持ちが想像できないように。
「私は父によく殴られた。蹴られた。父はそれを楽しんでいた。些細な理由か、あるいは、理由などなく殴られた。母は最初止めてくれたが、すぐに止めなくなった。私が殴られている限り、家庭は平和だったからだ」
淀みなく、感情をのせることなく、あなたは語り、問いかけました。
「ダリル。鬱憤晴らしで壁を殴ったことはあるか?」
「……ねーよ」
「私は、その、壁だった。八つ当たりの道具で、鬱憤晴らしの道具だった。私を殴り、怒鳴ることで、家族は鬱憤を晴らしていた。ずっと長いこと、そういうものだと思っていた。……でも、あなたの家で、ちがうと悟った」
初めて見た、温かい家庭。
「なあ、ダリル。教えてくれないか。どうして親が私を道具にするのはよくて、私が親を道具にしてはいけないんだ?」
……そのとき、ダリルは、口ごもってしまいました。あなたを説得しうる「何か」を言わなければならないことは痛烈に理解していたというのに。
これが分水嶺だということは、お互い痛いぐらいにわかっていたのに、どう言えばいいのか、判らなかったのです。
あなたは、しばらく答えを待ち、答えが返ってこない事を悟ると、呼びました。
「プーリマス」
瞬時にあなたの右肩に現れたものは、蛇形をした『魔』でした。
ダリルは目を見開きます。
最低第五階位という話でしたが……とんでもありません。
第三階位、ひょっとしたら第二階位もあり得ます。とんでもない高位の魔です。
ダリルはその時、気がつきました。あなたの右肩に乗った蛇が、こちらを見て、にやりと実に楽しそうに笑ったことに。
次の瞬間には、ふたりはその場から消えていました。
◆ ◆ ◆
魔の名を呼び、魔を呼びだし、事ここに至ってもなお、あなたは迷っていました。
迷う、というのは、あなたにとって珍しいことでした。
迷えるほどの選択肢が、あなたに示されたことは、滅多にないのです。ただ一つしかない道を、殴られよろめきながら生きてきた生でした。
今、あなたの目の前には父がいます。
あなたを役立たずと罵り、殴り、蹴っては憂さ晴らしをしてきた人間です。
凄惨な状況になっているあなたの顔を見るなり、父親が言った言葉はこうでした。
「なんだその顔は……見苦しい」
「――お父さん」
「勝手に顔に傷をつけやがって……俺への嫌がらせか? そんなにお前は俺を困らせたいのか!」
昨日、弟にひどく殴られているのを、父親も見ていたはずでした。
けれどその事実は、父親の頭からはさっぱりと消えているようでした。
あるいは、父親の中では、殴られてあなたの顔に痣ができるのは、「勝手に痣を作ったあなたのせい」、ということになるのかもしれません。
「ルスはもう学校へ出掛けたから、帰ってきたら治療してもらえ。もう前金はもらってるからな、顔に痕なんざ残すんじゃねえぞ」
そう言い捨てて、背を向けた父親に、あなたは呼びかけました。
「……お父さん」
そう呼びかけると、父親はかっとなって腕を振り上げ――しかしあなたの顔を見てさすがに自重し、そして吐き捨てました。
「気持ち悪い、呼ぶんじゃねえよ」
いまだに、あなたが迷っていたのは、両親に、期待していたからでした。
ほんの束の間、愛された時期の記憶があなたを苛み、期待していたのです。
ひょっとしたら、と。
その時、声を聞いて、母親も奥から出てきましたが、あなたの顔を見て、立ちすくみました。
一瞬瞳に罪悪感が浮かび――すぐにそれは消えます。何事もなかったかのように。あなたから顔をそむけ、見なかったことにする、心の動きが、透けていました。
「……お母さん、お父さん。私を……愛していると、言ってくれませんか」
あなたは必死に嘆願します。その顔には、珍しく表情が浮かんでいました。
「一度でいいんです。そう言ってくれれば、私は……生きていけますから。行けと言われたところにも、行きますから」
あなたの言葉の、どこかに癇の虫がひっかかったのでしょう。
父親は激昂しました。元々あなたに対する沸点は、とても低いのです。家族の誰も、あなたに対して我慢などしない家でしたから。
「ふざけるな! お前は言われたとおりにすればいいんだよ! 条件なんて出せる立場か!」
すうっと、心が冷えていくのが判りました。
あなたは、平素通りの冷めきった無表情に立ち返ります。
その様に――今更ながらに何かを感じたのか、父親が怒りをしまいました。
「お、おまえ……?」
どこか、怯えを含んだ声でした。
「プーリマス」
あなたが名前を呼ぶと、蛇形の悪魔が姿を現しました。ちろちろと赤い舌を出し、にたにたと舌舐めずりしています。
その魔を見て、立ちすくむ両親。
あなたは、すべてを投げ出すように、決定的な言葉を告げました。
「契約する」
◆ ◆ ◆
ダリルがあなたの家に駆けつけたとき、辺り一帯は騒然とした騒ぎになっていました。
町の内部に強大な魔が出現し、町家に住む夫婦を喰らい、逃げ去ったのです。
生存者は、たったの一名。
人形のように整った顔をした、硝子玉のような目をした子どもだけでした。
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