ダリルは、武装していました。
当然のことです。当たり前のことです。
あなたは、魔と契約したのですから。
ダリルだけは知っています。
あなたが魔に契約を持ちかけられたことを。
あなたが、両親の命と引き換えに囁かれたことを。
あの状況で、あなたの両親が亡くなって、まさか偶然と思うはずがありません。
「なんで、私の事を、言わなかった?」
どうして、ダリルだけが知っているのでしょう。――それは、彼が誰にも言わなかったからです。
では、どうして、ダリルは言わなかったのでしょう。
――それがわからなくて、あなたは待っていたのでした。きっと、ダリルは来るだろうと思って。
そして、来ました。
ダリルは顔をくしゃくしゃにして、吐き捨てます。
「……どうして、契約したんだ……。屑みたいなお前の親のためじゃない。お前自身のために、お前はそんなことすべきじゃなかった! 魔と契約したお前は、いずれ魔の操り人形になってしまう……!」
魔と契約したあなたは、魔の眷族となりました。
引き換えにたぐいまれな魔力を得ましたが、それだけに、いえ、それだからこそ、あなたは死ななければなりません。
魔と人は、戦争をしているのです。
あなたが魔力を武器に地位を上がれば上がるほど、獅子身中の虫の危険度は増します。
人の内部に食い込んだ、文字通り魔の手。
そんなものを放っておけるはずがありません。直ちに学校の教師なり、討伐官なりに報告するのが、正しい道です。
しかし、一日が経ち、二日経ち、三日が経っても、ダリルの告発はありませんでした。
「わかってる」
あなたは、頷きます。
「わかってない! 俺が言えば、お前は、殺されるんだぞ! 審問官の恐ろしさを甘く見るな!」
「そうするのが、正しい」
いつものように滑らかに、あなたはそう答えました。その、迷いというものをどこかに置き忘れたような口調に、ダリルがほんのわずか気圧された瞬間でした。
『ほう。誰にも言っておらぬのか、愚かな』
蛇が現れました。
『くだらぬ情に囚われて、為すべきこともしない愚か者とはな』
「黙れ」
あなたは右肩に乗った蛇を握りつぶしました。
ダリルの目が驚きに見開かれます。
「……っ!」
しかし、すぐに左肩に現れました。
『殺せ。この小僧を殺せ。そうすればお前は安泰だ』
ダリルははっと前かがみになり、警戒態勢をとります。手が腰の剣にまわりました。
蛇を無視して、あなたは問います。
「ダリル。どうして告発しなかった?」
青い硝子玉のような目に見つめられ、ダリルはゆっくりと、剣から手を離しました。
「おまえに……謝りたかった」
「謝る?」
「お、俺が……あんな、どんな親でも親だとかつまらない綺麗事を言って、その上、お前に、きちんとした言葉を届けることもできずに……お前を止めることができなかったから、お前は……!」
あなたは、そっと、かぶりを振りました。
……思えば、あなたのような気味の悪い人間と仲良くしてくれたのは、ダリルだけでした。
ご飯を食べさせ、あれこれと世話してくれたのは、見捨てるのは気分が悪いという同情でしょう。それは知っていましたが、それで構いませんでした。
「――ダリル」
あなたは、銀の髪をかきあげました。
ダリルは息をのみます。
頭皮に刻まれた痣。悪魔と契約した人間の――契約印が、そこにありました。
「あなたの告発だけでは不足でも、契約印の位置までわかっていれば、誰でも信じる。いつでも私を処刑台に送ることができる」
『何を言っているのだ! お前は!』
「黙れ、蛇」
悪魔の弾劾を、射落とすような声。
息を呑んで見つめるダリルに、あなたは言います。
「知っているとは思うが、私は、王都に行くことになった」
強い魔力を持った子どもに英才教育をし、その才能を伸ばすのは、国の重要事項といえます。
「あなたがその気になったら、誰かに言うといい。私は、かまわない」
決して誰にも知られてはいけない秘密を握った相手を、見逃すというのです。
「こ……っ、殺さなくて、いいのかよ……」
「殺す?」
今のあなたなら
一言でダリルを殺せます。そして、あなたがダリルを殺す理由はありますが、見逃す理由はありません。
けれど――あなたは、ダリルを見つめ、ゆっくりと尋ねました。
「私が、ダリルを? なぜ?」
「なんで、って……お前……」
「同じことを、ダリルもしているだろう。わざわざ、ここに来る必要などなかった。誰かに、話をすればそれで終わりだった」
契約からずっと、あなたの側には誰かしらいました。ダリルと二人だけで話をしたいと思って誘いだしたのはあなたですが、それに乗る必要など、なかったのです。
「私は、死ぬべきだ。あなたは、私の秘密を誰かに告げるだけでいい。あなたは優しいから、苦しむだろう。でも、あなたのその行いは正しい事だ。悔やむ必要はない。魔と契約し、両親を殺めた私は、死ぬべきだ」
ダリルは、激しい痛みを堪える表情で、それを聞いていました。
そして、震える声で、尋ねます。
「……なあ、おまえ。おまえ、生まれてきてよかったと思ったことは……あるか?」
「ない」
即答でした。
ダリルは理解しました。
あなたは、生まれてきてよかったと思ったことが、一度もないのです。
だから、ダリルを殺め、自分の保身をはかるつもりなど、最初から……無かったのでした。
両手を見下ろし、あなたは言います。
「私は空虚だ。空っぽだ。以前はまだ、魔力が強くなりたいという望みがあった。だが、心の中に、もう何もありはしない。流されるまま、ただ生きている。私はできそこないだ。それはわかる。死ぬに足る罪状も築き上げた。それもわかる。死にたくないと思うのがまともな人間なら、私はまともではない」
血の吐くような努力を重ねてきたおかげでしょう。あなたは、今の自分の有り余る魔力を、完全に近いほど、制御することができました。
――けれど、それがなんでしょうか。
「喜びも知らず、悲しみも知らない。私は出来損ないの木偶人形だ。生きている価値など、ない」
ダリルが告発しない事を不思議に思いながら、彼の心の屈託を取り除き、場合によっては……そう、彼がそれを望むのならば刃にかかっても良いと思って、あなたはここに来たのです。
そのとき、堪えきれなくなったようにダリルが叫びました。
「感情のない人間なんてない!」
叩きつけるような叫びでした。
「お前が勝手にそう思いこんでいるだけだ! 感情のない人間なんていない! 絶対にいない!」
ダリルはあなたの手を掴みます。
「殴られて痛かっただろう? 酷い言葉を言われて痛かっただろう? お前の親父たちが、弟ばっかり可愛がるのを見て、痛かっただろう!?」
ダリルは見ていました。
人形のような、そう、綺麗なだけで表情が変わらないあなたが、時々痛そうに顔を歪めるのを。
それは魔法が失敗したり、学園内で弟のことを見かけたり、話を聞いたりしたときでした。
「俺が……っ、無神経に、夕飯にお前を誘った時も! お前は羨ましそうな顔をした! お前は感情が無いんじゃない! 不器用なだけだ!」
「――っ!」
痛いところを抉られて、あなたは初めて顔色を変えました。
『ほう』
そう言ったのは、これまで黙って面白そうにやり取りを見やっていた蛇です。
「貴様……!」
『そなたは、この娘に、感情があるというか。おもしろい。見場がよいだけならばいくらでもおる。我が選んだのは、泣かず、笑わず、ただあるがままに受け止め何も求めぬその魂ゆえよ。まっこと器に相応しいと我は選んだ』
「蛇……貴様が、おまえが!」
『ははは。我を責めるのは筋違いというもの。我がこの者に声を掛けなければ、どんな運命であったか、そなたにも容易に想像できよう?』
ダリルは、手を握りました。
蛇が囁かなかった時の未来。それはダリルにも容易に想像がつきました。
もう十五歳……成人とはいえ、あなたは痩せっぽちの貧相な体をしています。ですが、それがいい、そういう人間も、いるのです。
『特に危険なのは弟よ』
しゃ、しゃ。
蛇の赤い舌が、ちろちろと出入りします。
ダリルは吐き捨てました。
「実の姉に……変態じゃねえか」
『ふはは。実に良い。実に良い執着。恋着と所有欲と倫理と蔑みが混ざり合い、実に滑稽であった。あの小僧は、物心ついたときから暴力と蔑みの対象であった姉がその実、これまで見た誰よりも美しいことに、ある日不意に気づいたのよ。
そっちのほうに興味を持ち始める頃でもあってなあ』
ダリルは歯を食いしばり、嫌悪感に耐えます。蛇が暴いていくあなたの家の事情は、まともな感覚のある人間にとっては、かくもおぞましいものでした。
『それでも姉は姉。手は出せぬ。手を出そうとしても、倫理がその欲望の邪魔をする。その葛藤のせめぎ合いのなか、不意にそなたが現れた』
「俺……?」
『我慢に我慢を重ねていたら、ひょいと出てきた鳶にさらわれそうになったのよ。焦るであろう? 慌てるであろう? 遠からず一線を越え、そして越えれば堕ちるは早い。――のお、そなた。それが、果たして幸せであったというか。今よりも良いと、本当に言うか』
ダリルはぐっと大地を踏みしめ、息を吸い込み、言いました。
「俺がいる!」
この確かな言葉には、蛇も驚いたようでした。
「俺が守ってやる! こいつの面倒見てやる! 遠くまで行って、仕事探してやって、親と縁を切ればいい! お前なんかお呼びじゃないんだよ、くそったれ魔!」
威勢のいい啖呵に、あなたは目を丸くしました。
魔と戦争を長年続けているお国柄です。
両親のいない子どもは珍しくありません。
親は戦さで死んだ、と言えば、誰も疑いません。遠方まで逃げ、そうしてそこで勤め口を探せばいいのです。
長年続く戦争により、国の経済は戦争を前提とした体制となっていて、潤沢な消費、それを支える供給による好景気により、どこも活況です。まして、あなたの容姿です。勤め口には困らないでしょう。
『くっ……ふふふ』
蛇は愉快そうに笑いました。
『だがの。そなたが手を引いてやっても、この娘は逃げられぬ。娘の家族がそなたに危害を加えてでも聞き出そうとするでなあ。それがわかるだけに、この娘は逃げられぬ。そなたに迷惑をかけるわけにはいかぬとな。この娘、良くも悪くも己の為に他者を犠牲にできるほどの
我はない』
「……そうだろうな」
反発するかと思いきや、ダリルは短く同意しました。
彼にも、わかっていたのです。
逃亡する人間に最も必要なものは、逃亡する意志。
悲しいまでに、あなたにないものでした。
――そして、もう、取り返しのつく段階は、過ぎています。
あなたが王都に出立すれば、あなたはその魔力で栄達の階段を昇っていくでしょう。魔の眷族が、人間の最大戦力である魔法使いの一員となるのです。
人間として……為すべきことは、わかりきっていました。
ダリルは剣を抜き、かまえます。
あなたはそれを、いつも通りの無表情で見ていました。どうしてか、蛇も邪魔しようとはしません。
あなたは、いつも通りの顔で死を待っていました。その、硝子玉のような瞳には、一切の迷いも、生への執着もなく――……。
凝縮した数秒の末に、ダリルは剣を下ろしました。
手で顔を覆い、唸るような声をあげます。
「ごめん……ごめんおじさん……っ! できない、できないよ……っ!」
彼が、魔と戦う尊敬する叔父から、重々聞かされたこと。魔と契約し、魔の眷族となった者は、外形は人であっても、中身は魔だ。
人間と同じ顔で命乞いされても、けっして躊躇うな。
でも、目の前にいるのは、友達なのです。
痩せっぽちで、いつも怪我していて、そして一度も生まれたいと思ったことはないと、だから殺していいと無感情に言い放つ人間なのです。
――あまりにも哀れでした。
ダリルは、これまで、最下位の魔だったら叔父と一緒に狩ったこともあります。
……人を斬るのが、これほどまでに苦しいものだと、初めて知りました。
うずくまるダリルの肩にそっと温かいものが触れました。
「ダリルは、優しいな」
ダリルは顔を上げ――そして絶句しました。
銀盤のように輝く池を背景に、あなたが微笑んでいました。
青い硝子玉だった目に優しさを浮かべ、宝石のようです。閉じられたままの桜色の唇は弧を描いています。
銀の髪で縁取られた顔の輪郭は、暗い周囲からくっきりと浮かび上がっていました。
それは、あなたが、生涯初めて誰かに向ける笑顔でした。
「ありがとう」
天使――ダリルがそう思ったほど、無垢な笑顔でした。
その笑顔は少年の
精神の核を抉り、一生消えない残像を焼きつけました。
それきり、あなたは姿を消します。
消えない幻影を刻みつけた少年を、その場に残して。
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