馬車は旅程通りに進み、「勿忘草(わすれなぐさ)」の町に到着しました。
長年の戦争により兵站の重要性を思い知っているため、この国は街道の整備に力を入れています。
旅程通りに旅ができたのは手入れが行きとどいた街道と、点々とある宿場町のおかげといえます。
この町は、町の真ん中を街道が貫いている形で、魔に備えてもちろん城壁があり、門があります。
その門が閉ざされる前に入れたのは幸運でした。
門をくぐってすぐ、警報のラッパとともに鐘が音高く鳴らされたのです。
カンカンカンカン……独特のリズムがあるこの音は、誰でもすぐに思い当たるものでした。
「――魔の襲来かっ!」
つい先刻くぐったばかりの門が、閉門時間前に、急いで閉められようとしています。
街道にずらりと並ぶ人々は急いで押し合いへしあいして入ろうとし、物凄い有様です。
教師は窓を開けて御者に宿へと急ぐように言い、それから生徒を振り返りました。
「今、宿へ行ってくれるよう御者に頼んだ。お前たちは宿で大人しくしていなさい。私は魔法使いだ。襲撃に際しては招集に応じる義務がある」
「私も行きます」
即座に言ったあなたを教師は珍しいものを見る目で見て、そして頷きました。
「いいだろう。ただし、無理はしないように」
城壁は二枚の壁が重なり、壁と壁の間の空間には歩哨などの部屋があり、城壁の上を歩ける構造になっています。
階段は内側の城壁の外付けで、あなたは風に飛ばされないよう手すりをつかんで教師を追いかけました。
城壁のてっぺんには五歩程の幅の道があり、そこから見下ろす光景は、人の心胆を寒くするものでした。
魔の軍勢はおよそ千ほどもいるでしょうか。
それが、大地を埋め尽くしていました。
街道を進む馬車が猛烈な勢いでこちらに向かっています。もう門は閉ざされています。それでもこちらに来る他ないのです。背後はもう既に、魔に覆い尽くされているのですから。
蟻型のものが八割、蜥蜴型のものが二割、そして、それを率いる飛竜(ワイバーン)が一体、悠然とこちらに向かっています。
「……まずい。飛竜(ワイバーン)だ。城壁を越えて火の息を落とされたら防ぎようがない。なんとしても始末しなくては」
教師の緊迫感に満ちた声に、あなたは内部へと声を掛けました。
――蛇。あの軍勢を始末する方法はないか?
一旦露見すれば、たちまち捕えられ、処刑されることがわかっているのでしょう。蛇は人目のあるところでは決して出てきません。いつも、あなたの内に潜っています。ダリルと話したあのときだけが例外でした。
返ってきた声は、愉快そうでした。
『いいとも。あ奴らを始末する魔法を教えてやろう。そなたが力を見せつけ、重く見られることは、この先役に立つ』
――魔を殺すことになるが、いいのか?
同族殺しをしてもいいのかという問いに、蛇は笑いの波動を返すだけでした。
魔は、同族意識が薄いのかもしれません。
階段を駆け上がる音が断続的に響きます。見れば、この町に駐留する魔法使いが駆け付けたところでした。
「君たちは――?」
「私たちは王都に向かう途中の者で」
慌ただしく自己紹介が交換されるなか、何気なく下を見たあなたははっとしました。
先ほどの、街道を疾駆し一目散に逃げていた馬車が城門に到着し、それ以上逃げようがなくなったのです。
城壁の上にも、切れ切れに声が聞こえてきます。
「助けてくれ! 開けてくれー! 殺される! 殺されてしまう!!」
聞こえた者は皆、傷口をこじられたような顔になりました。
……城門を開けることはできません。
開けたら、魔が大挙して侵入するでしょう。
城門を閉ざしている限り、あの飛竜をのぞけば、当分は町に魔が侵入することはないのです。
ここで情に負け、魔の侵入を許したら、待っているのはこれからはじまるだろう惨劇を数百倍に拡大した酸鼻極まる光景です。
意識的に感情を排した誰かの事務的な声が、状況を整理しました。
「――蟻も蜥蜴も二十階位、ただ飛竜だけが飛びぬけて高い……九階位だ。飛竜だけ何とかすれば城壁を盾に無傷で殲滅できる。飛竜を始末するのが最優先だ」
眼下では、馬車に乗っていた人間が全員飛び下りて訴えています。その中に、ダリルとよく似た少年がいるのを見た瞬間、あなたは詠唱を始めていました。
両手を振り上げ、手首同士を交差させます。
「我、天と祖霊に願い奉る――」
たった今、蛇から流れ込んできた魔法です。
「白く凍れし美しき花
七ツ星にささげし凍花
水の癒し子の嘆きの声
氷の女神の砕けし涙
白の闇に広がりし精霊の声を持ちよりて、我が前に広がりし敵に、凍れる白月の祝福を与えん」
最初の誓句を聞いて怪訝そうに教師を見ていた魔法使い達が、顔色を変えました。
王都へとあがる生徒ならば詠唱省略は出来て当然、なぜ誓句を唱えているのかという疑問は、続く語句で氷解しました。
詠唱省略ができるはずがありません。あまりにも上級すぎます。
生徒の身で唱えるには分不相応にも程がある魔法。
「『
氷精乱舞』」
氷の最上級呪文は、視界全てを白く染めました。
その場にいた兵士も魔法使いも誰もが腕で目を庇い、吹雪から顔を背けます。
あなたが範囲指定したのは視界の向こう。魔の軍勢へです。こちら側に吹いているのは余波にすぎません。それでも目を開けていられないほどの威力がありました。
猛吹雪は一分ほども続き、やがておさまったとき、地響きが轟きました。
空を飛んでいた飛竜が凍りつき、落下した音です。全長およそ大人十人分はあろうかという巨体が落ちたのです。
「あ……ああ……」
眼前の光景に、誰かが、呻きにも似た声をあげました。
全てが凍りついていました。白く――美しさすら漂わせ。
千を数える魔の軍勢が、雪の中で息絶えていました。
――そして、当然の結果として。
全ての魔力を出しきったあなたは、その場に崩れ落ちました。
床に接吻する寸前に抱きとめてくれたのは、引率の教師です。
けれど、魔力の枯渇による衰弱以外の、耐えがたい不快感に、あなたは声を絞り出しました。
「……すみません。人に、さわられるのは、好きではないので……離してくれませんか」
教師はあなたの事情を思い出したのか納得したような顔になり、視線を巡らせました。
ここで手を離せば倒れることは必定、けれども触られたくないというあなたの気持ちもわかる。それを解決する方法は……とそこで教師は声を掛けました。
「すまない、手を貸してもらえないか?」
教師が声をかけたのは、女性の兵士でした。
「あ、ああ。構わないが……?」
手渡すと、この言葉を教師は小声で囁きました。
「この子はちょっと事情があって、男に触られたくないようなんだ。《月の兎》亭まで、届けてくれないか」
女性兵士が今度の殊勲者を見れば、たったひとりで軍勢を下したあなたは驚くほど美しい少女でした。これなら男相手に何がしかの嫌な記憶があってもおかしくありません。
納得し、女性兵士はあなたを背中に担いで階段を下っていきました。
ですからここからは、あなたの知らない話になります。
残された魔法使いたちは白い凍結した景色を見て、囁き合いました。
「――さて、どうする?」
「文句なしの英雄だ。報奨金のうえ、名誉賞授与だろう?」
「本人はいたって控えめで大人しい子なんだ。果たしてそんな見世物のようにされたいかどうか……」
「それなら回復次第、早く町を出ていった方がいい。ここにいれば間違いなく英雄に祭り上げられて息つく間もなくパーティだ。学院の入学時期が過ぎてしまう」
「うむ。早いところ王都への旅に戻るのが一番いいだろうな」
その意見に教師も同意しました。
そして、事後処理をこの町の魔法使いたちに託し、宿へと急ぎ戻ることになったのです。
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