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あかね雲

□ 黄金の王子と闇の悪魔 □

《天秤は平衡でなければならない》




 父に印章を返しに行き、会合の様子を伝えると、非常に驚いた顔をされた。
 ジョカが、毎週会いに来いというのは、とても珍しいことらしい。
 リオンはまるで嬉しくないが。
 ジョカの正体を父に尋ねてみたが、父は曇った顔で
「お前が立太子の式をあげたら、教えよう」
 というばかりだ。
 魔術師なのか、という推測もぶつけてみたが、応とも否とも言ってくれないで言葉を濁される。
 書物を紐解いて魔術師という存在について調べてみた。
 古書室でページをめくると、遥かいにしえにいた、「魔術師」という存在が脳裏に広がっていく。
 彼らは、およそ二百年前、忽然と姿を消した。
 原因はわからない。魔術師にのみ伝染する病とも、あるいは人間の間で「魔女狩り」が広まったからとも、魔法で別の次元に行ったとも言われている。
 リオンはそこで一旦、本を離れ、二百年前という言葉の重みについて考えてみた。
 二百年前。言葉にすれば簡単だが、ずいぶんと古い。
 父も、父の父も、父の父の父も、そのころにはまだ生まれていないだろう。
 二百年前のものなど、芸術品を除けば王宮には一つもないのではないか。
 二百年も前の歴史の真実を知る術など、ないだろう。魔術師は滅んだ。ただそれだけが残る事実だ。
 リオンは本に戻る。
 魔術師は、いろいろなことができたという。何もない所に炎や水を生み出したり、雨を呼んだり、未来を見たり。
 どうしてできるかはわからない。不思議な呪文をとなえ、杖を振るとそうした事象はあらわれる。
 現在では魔術師は空想のお話の中にのみ存在する存在となってしまった。良い魔法使いや悪い魔法使いが、主人公を手助けしたり主人公に成敗されたりするお話である。
 「魔法使い」を知らない者はいないが、実物を見たことのある者は、一人もいない。
 リオンは本を閉じた。
 この本からして、二百年前には存在していなかったのだから当然かもしれないが、推測と想像の域を出ない。何一つとして新たな発見はなかった。
 一体、ジョカは何者なのか? 魔術師という推測で、合っているのだろうか。合っているのだとしたら、どうして父はそう言ってくれないのだろう?
 ルイジアナ王家が魔術師を隠匿していたとしても、それで騒ぐほど自分は子どもではない。むしろ、おおいに敬意を払い、守護を続けてくれるよう頼むつもりだ。
 その判断ができないほど子どもだと思われているのだろうか?
 ふう、と吐息をついて本を手に立ち上がる。しん、とした空気。古書室は王族をのぞき、入室に特別な許可がいるため、王族以外はほとんど立ち入らない。
 リオンにとって年齢は常にネックだった。
 いくら頭がまわっても子どもは子ども。大人は、いつも彼を甘く見る。
 本を元通りの位置に戻したとき、人の気配を感じて振り向く。
 貴婦人のドレスが目に入った。
 品はかなりいいもので、良家の令嬢だと知れる。
 小作りの、戸惑った顔がこちらを見返していた。年は十五かそこら。こげ茶の髪を巻いて垂らし、白皙の肌にはめ込まれた瞳は澄んだ翠。
 珍しいことだ。貴族の女性ならば読み書きぐらいはできるが、この書庫は学術書ばかりで、女性の好む読み物などない。
 彼女はドレスをつまみ、腰を折って頭を下げた。
「お騒がせしてしまい、申し訳ありません。世継ぎの君」
「……いや。結構だ。私はもう立ち去るのでゆるりと過ごされるといい」
 さて、これは偶然か仕組まれたかと思いながらそう口にする。
 リオンは誰の目にもわかる美貌の主で、しかも第一王子である。取り入ろうとする輩、娘を売り込もう、あわよくば妃のひとりに、と思う輩は後を絶たない。
 宮廷の内外で佳人や貴婦人が「運命の出会い」をやろうと仕組むことがしばしばだった。
 この娘はあまりぱっとしない地味な顔立ちだが、着ているものはそれなりにいい。若草色のドレスにところどころ華やかなレースが縫い付けてある。
 頭を下げたままでいる娘は、そのままリオンが立ち去るのを待っている。
 いつものリオンなら、そのまま退出するところだ。
 だが、ふと、気まぐれがわいた。
「頭を上げるといい」
 王族の許可をえて、娘が顔をあげる。
「ここへ立ち入る許可は誰に得た?」
 大きな翡翠の瞳が、戸惑いを帯びる。それでも彼女は答えた。
「大司教さまです」
 予想外の言葉だった。
 大司教は、遠方にある国教会の本部から派遣されてくる聖職者で、この国の教会すべてを統括する地位にある。
 現在の大司教は着任十年目。非常に厳格で、清く正しい生活をする人物だった。堕落して、酒や女を抱く聖職者たちも珍しくないのだ。いや、どちらかというと、そちらの方が多い。
 王族として、その四角四面な態度に手を焼かされることもないでもないが、リオンはその清廉潔白さを案外気に入っていた。それは彼が自らの清さを、他人を攻撃するのに用いない人物だからということもある。
「あ……わたくし、大司教さまとはたびたび交流を持たせていただいて、勉強なども見ていただいているのですが、歴史書を見せていただきたいと申しましたら、大司教さまがそれならばここがよいと……」
 戸惑いと、おびえが震える声から伝わってくる。
「歴史書?」
「あ……はい」
「我が国の?」
「もちろんそれもですが、できれば他国のものも含めまして……」
 王族の教養として、リオンは一流の教師のもとで歴史を学んでいる。そして、この書庫にはたびたび立ち入っていた。
「あなたは何が知りたいのかな?」
「あ……はい。ここ二百年ほどの間の、我が国の出来事などを」
 もう少し詳しい要点を尋ね、書庫からそれにかなう二三冊を手にとって渡した。分類法などなく、ろくに仕分けされていないこの書庫では、探すのに非常に時間がかかるのだ。
「あ、ありがとうございます」
 娘はドレスをつまみ、頭を下げる。
 そこで立ち去ればよいのに、ふと、虫の知らせがあった。
「……あなたは大司教と親しいとか」
「え? はい、親しいというほどではありませんが……」
「いや。大司教が直々にこの書庫の入室許可を出すほどだ。よほど可愛がられているのだろう。―――闇の守護、というものについて、聞いたことはあるか?」
 娘は記憶を探る顔になり、
「いいえ」
 と返した。
「そうか。では、折を見て大司教に聞いてみていただけないだろうか?」
 相手を選んでひっそりとかわされる噂。その「相手」に、大司教が入っている可能性は、かなり高い。
「は、はい。かしこまりました。お伝えするにはどのように……」
「私はよく、この書庫に来る。あなたとまた偶然時間がかちあうこともあるだろう。その際にでも伝えてくれればいい」
 リオンはそこでようやく、この娘の名を知らないことを思いついた。
「あなたの名は?」
 娘は優雅にお辞儀をした。
「アネット、と申します。アネット・ラ・クリスベールです」
 その場は、どこかで聞いたことのある貴族名だという印象だけだった。
 貴族は国内のものだけで百家を超すのだ。その詳しい特徴までいちいち覚えていられない。
 リオンが、それが王妃の生国、ベルモント王国の貴族だということを思い出したのはその日別れてからで、それはまことに幸運なことだった。

     ◆ ◆ ◆

 娘は、王妃の婚姻とともにこの国にやってきた貴族の一人だろう。
 王女の輿入れともなれば、多数の侍女がついてくるのが普通であり、彼女らは貴族出身であることがほとんどである。侍女といっても下働きはしない。彼女らは王妃の話し相手や、王妃のお茶を入れたり、化粧や着替えを手伝ったりするのが仕事なのである。
 あの場で気づかなくて良かった。気づいていたら、友好的な態度をとれたかどうか。
 リオンはいまだ十二歳。いくら聡明と言われても、感情をセーブできたかどうか、自分でも自信がなかった。
 アネットは、その翌日、古書室で待っていた。
 取り巻きに調べさせ、娘の言ったことの裏はとってある。大司教のお気に入りで、確かに大司教からこの許可をもらい、その日のうちに古書室に入ったのだ。
 あの大司教の人柄からして、仕組んだ線は薄そうだが、完全にないとは言い切れない。
 しかし、娘の持ってきた情報は魅力的だった。
「闇の守護、というものについて大司教様にお尋ねしてみました。なんでも、そういった伝説があるのだそうですわ。この国の恵み―――幾度もの天災を無傷で切り抜け、他国からの侵略においては突如として川が氾濫し、戦船いくさぶねが沈んだこと……。そうした事象がこの国にあり、まるで誰かに守護されているかのようだ、と。そこから、闇の守護という言葉ができたのだと」
「―――そうか」
 想像していたことと、違わぬ結果だった。
 この国の恵みを、ジョカは自分のこと、といった。つまり……この国を守護しているのは、やはり、ジョカなのだ。
 気が進まないが、その招きとあれば、行かなければならないだろう。
「ありがとう。礼を言う」
「恐れおおうございます」
 スカートをつまみあげての、優雅な一礼。
「それと、先日は気づかず、申し訳なかった。あなたはベルモント王国のお方なのだな」
「はい。王妃様の御輿入れに伴い、こちらに移住いたしました」
「向学心旺盛な方だ。先日の本はもう読まれたか?」
「いえ、まだ……半分ほどです」
 自国の貴族なら向学心旺盛、で済むが、他国の貴族ともなれば話はまるで違う。ここへ立ち入る許可を与えた大司教に、舌打ちする思いだった。
 この古書室は、ルイジアナ王国の貴重な蔵書が含まれているのだ。持ち出しはできずとも、頭の中におさめられて出国されてはいささか後日、難があるかもしれない。
 女だから警戒する必要はないとは思うが……やはり父に言って許可を取り消させてもらおうか、と考えていると、声をかけられた。
「御懸念はごもっともだと思います。ですが、わたくしはすでにこのルイジアナ王国に嫁いだ身と考えておりますので、仇するような真似は決していたしません」
 リオンは、自分より頭半分背の高い女性を見つめた。
 この時代、貴族の女性とは父親もしくは夫の財産だと見なされている。父親の言うままに結婚し、嫁いでいくのが普通であるのだ。生国にいる彼女の父が彼女の縁談を取りまとめれば、彼女は王妃のもとを辞去して家に戻り、嫁ぐことになるだろう。
「仇するような真似はしないと?」
「ええ」
「だが、あなたの主人の意見はどうも違うようだが?」
「そ、それは……」
 ベルモント王国の王女であった王妃は、我を抑えるということを学ばずにここに嫁いできた。そして、夫に顧みられぬ生活に憤慨し、その不満をほうぼうに訴えている。
 一国の王妃たるものが、その国への不満を垂れ流す。
 それがどのような事態を引き起こすかもわかっていない。
 あまりの愚かしさに、「病気」にでもなってもらおうかと、リオンはそんなことまで考えている。
 第一王子であるリオンを取り巻く人間たちは多く、使えばそれなりに便利である。
 しかし、アネットは言いよどんだ後、決然と顔を上げた。
「失礼ですが、殿下は、王妃様を誤解しておられますわ」
「……誤解?」
「この国は富める国。そして自国だけでじゅうぶん富めるせいか、他国を拒絶する風潮がございます。また、いとお美しかった前王妃さまとはちがい、王妃様はさほどでもありません。そのため、この国の方は嫁いできた王妃様にとても冷たくあられました。けれども、王妃様は懸命に頑張っておられました。ですが、ある頃から、不穏な噂が流されて……。王妃様が、リオン様を害そうとしている、という聞き捨てならないそれは嫌なものです。
殿下。殿下は王妃様と殿下を仲たがいさせようとたくらむ者どもから、その噂を耳になされたのでしょう。それは偽りでございます」
 アネットは決死の表情で言い募っていたが、沈痛な表情になり、顔をふせる。
「……王妃様は、その噂を耳にして以来、心労でお休みも浅く、食欲もさほどおありになりません。王妃様がお子を可愛がっておられるのは事実ですが、それは母親なのですから当然でございましょう。けっして、リオンさまを押しのけてとか、そういうつもりではないのです」
 リオンは黙っていた。
 王妃に関する嫌な噂を伝えてきた人間は取り巻きの一人だった。
 確かに、王妃の言動の話はすべて人づてに聞いたものだ。あの義母がどういう人間なのか、実際にはほとんど知らないと言っていい。公式の場ではリオンは完璧に礼儀を守り、義母も礼儀を守っていたからだ。
 だが、自分が間違っていたかもしれないと思うのは―――まだ十二のリオンには、いや、年がいくつであっても、難しいことだった。
 この娘の話を、聞かなかったこととしてしまいたい。出鱈目だと断じたい。
 その心を押し切り、乾いた声ではあったが、リオンはこう言うことができた。
「……貴重な話を聞かせてもらい、ありがとう。義母上を、噂に惑わされずにもう一度、あらためて見るよう心がけてみよう」

     ◆ ◆ ◆

 心に灯った憂鬱を消すのは、体を動かすのが一番である。
 リオンは剣術や馬術の稽古にはげんだ。
 瞬く間に一週間が過ぎる。
 リオンの目の前で、漆黒の扉が開いた。
 印章なしでは開かないという扉だが、前回の終わりに、印章がなくてもリオンには開くようにしたといわれた通りだった。
 一週間ぶりに訪問した部屋は、前回と同じく闇に包まれていた。
 ジョカは前回と同じく長椅子の上で、軽く手を上げた。
「おう、王子。よく来た」
 リオンもこのぞんざいな口調にだいぶ慣れた。
 相手がこの国の守護神だろうと思えば、腹も立たない。
 長椅子へ歩み寄りながら尋ねる。繰り返しいらないといわれたので、敬語は用いない。
「……使用人はいないのか?」
「いない。いても気の毒だろう。他国の密偵に接触されて、誘拐だー拷問だーって話になるものなあ?」
 神の恩寵が、あまりにルイジアナ王国に偏って注がれていることに、周辺国では疑惑と嫉妬をつのらせている。その恩寵の源を探ろうという話は当然、出たはずで、そして、ジョカに使用人などつければ、真っ先に被害にあうだろう。
「そういう輩がこの部屋にきたことはあるのか?」
「あるぜ、五十年ほど前、一度きりだけどな。うん、あいつは腕のいい密偵だった」
 何やら感心する口調だった。
「―――明かりをつけてくれないか?」
「ああ、すまん。気づかなかった」
 声とともに、部屋が明るくなる。
 光源はどこかわからない。周囲を見まわしても、特に光が強いところはないのだ。不思議な光だった。
 リオンはジョカを見下ろしてたずねる。
「……あなたは魔術師なのか?」
「さあな。お前の親父に聞けよ」
「……聞いたが教えてくれなかった」
「だろうなあ。代々、立太子の式の後にしか教えない。いつの間にかそういう伝統ができて、なんだか知らんが掟ってことになってな。馬鹿馬鹿しいが、ま、放ってある」
 ジョカは肩をすくめた。
 掟と呼ばれるものの成立段階を見てきた彼からすれば、馬鹿馬鹿しい、になるのだろう。
「先程の話だが……」
「ああ?」
「この部屋に侵入したという密偵の話だ。どうやって? 王の印章を盗んだのか?」
「そこんところは俺も知らん。俺もぜひともじっくり話を聞いて、侵入経路を知りたかったんだが、気がついたら部屋にいて、気がついたら死体になっててな。ま、どんなもんにも隙はある。そして知恵のある人間もたくさんいるものだ。自分は完璧なものを作ったつもりでも、他人から見れば穴ぼろぼろ、なんてことはよくある。あの密偵も、一生懸命努力して俺のことを探り出し、一生懸命知恵をしぼって侵入したんだろう」
「……彼を殺したのは誰だ?」
「あ、俺」
 はーい、と教室で教師に手をあげる生徒のような口調だった。
「……気がついたら死体になっていたと……あ、反射的に攻撃してしまったとかか?」
「まあそんなもん」
 自室に侵入者がいて、とっさに攻撃してしまうというのは歴戦の剣士にはよくあることだという。
 そして、その場合どう考えても侵入者の方が悪い。
 リオンも、自室に侵入者がいたら、……今の自分では驚きで固まってしまうだろうが、とっさに攻撃できるようになりたいものだ。
 ジョカは長椅子から立ち上がると、紅茶を淹れた。
 手伝おうかどうしようかと迷ったが、リオンは、紅茶を自分で淹れたことなど生まれて一度たりともない。朝昼晩と飲んでいるが、すべて他人の手で淹れてもらった。
 迷っている間に紅茶は淹れおわり、馥郁たるいい香りが漂ってきた。
 入口近くの丸テーブルに、二つのカップを下ろす。
「今回は飲むか?」
 軽くうなずいた。
「いただかせてもらう」
「父親に確認したか?」
「ああ。あなたの部屋では酒肴にあずかっていると」
 正直に答えるとなぜか、ジョカはくっくっくと笑い、華奢なつくりの優美な椅子にどっかりと腰掛けた。
 黒い瞳が、リオンを見つめる。何故か落ち着かない気分になった。
 数秒凝視したあと、ジョカは言う。
「前回と比べて、王子の運命が微妙に変化した。この一週間で、なにかあっただろう? 王子」
「あ、ああ。あった。……わかるのか? 人の運命が」
「ただひとつの場合をのぞき、口外はならんがな。さて、聞かせてもらえるか?」
 リオンは、かいつまんで事情を話した。
 聞き終わり、ジョカは腕組みをする。
 噂に惑わされ、義母を誤解していたようだ、仲良くしたいと思う、というリオンの言葉にジョカは難しい顔だった。
「ふーむ。一つ言えることはな。片一方に流れるのはよくないぞ? 極端から極端に、人の心というのは流れやすい。疑っていた、しまった悪い、という感情が、その相手を実物より一層良く思おうとする。罪悪感の裏返しだな。―――王子は王になるのだから、冷静に、公平に見る視点を身につけるべきだ。そのアネットという娘、可能性としては王子に嘘を言っているということも、あり得るのだから」
「……そう、だな」
 驚くほどまっとうな意見に、リオンは驚きつつも頷く。
 義母に対して持っていた悪感情の裏返しに、リオンはこれから仲良くなれれば、と考えていた。だが、確かに、あの娘が嘘をついたという可能性も、ありえるのだ。
 ―――極端から極端に流れないように、公平な視点を。
 ジョカの言葉を胸に刻む。
「だが、何もかも疑っているのでは……」
「それはそうだ。だから、王子は自分の目を鍛えるべきだ」
「え?」
「王子は、その義母について、本当のことは何も知らない……かもしれない、ということに気づいたのだろう? ならどうして、自分で義母の人となりを知ろうとしない? 無知であったことを知るのは、知のはじまりだ。だが、そこから何も学ばず、また人づての情報を鵜呑みにしているのでは、無知を知りまた無知へと流れるだけだぞ」
 羞恥で顔が熱い。
 自分が愚かであったことに気づく程度にはリオンは聡明であり、そして自分が聡明だと思っていた分、羞恥は増した。
 ぎこちなく、うなずく。
「……その通りだ。養母上と会う機会を、作ってみよう。そして自分の目で確かめてみる」
「そこで問題になるのが王子の目だな」
 ジョカはにやりと笑う。
「十二の子どもを手なずけるなど、赤子の首を絞めるようなものだと思っている女も多いし、実際に騙されやすい。女は天性の演技者だ。男よりよほど、演技が上手い。ポイントを教えてやろう。人柄を見るときは、本人よりもむしろ、その周辺を見るべきだ」
「周辺を?」
「使用人や、弟王子なんかが最適だ。王子に対する態度には猫をかぶれても、常時一緒にいる使用人には猫をかぶれないものだ」
 リオンはふと考え込んだ。自分はどうだろうと思ったのだ。
 侍従や侍女には普通に接している、つもりだが。
 その思いを察して、ジョカはいう。
「王子の人柄については俺が保証してやろう。俺の人を見る目は特別だ。人の数倍の経験を積んでいるからな。三百年の長きにわたって王家を見てきたが、王子ほど聡明で自律心に富んだ王子は滅多にいない。まあ、王子ほど美しい王子は二人といないということは言うまでもないが」
 思わず睨みつけたが、風に吹かれた程度にも気にする様子はない。
「弟とは仲がいいのか?」
「……いや。全然。話したこともない」
 弟は今三歳。片言しか話せないまだ幼児だし、側には常に王妃か王妃の侍女が控えていて、面倒を見る気になれなかった。
 第一王子に幼児の世話をさせようなんて人間ももちろんいない。
「弟なのだろう? 会って優しくしてやるといい。王子のように擦れて警戒心が育っていないうちならば、優しくしてやれば子どもはなつきやすいものだ」
「擦れて……」
「王子はなかなかの擦れ具合だと思うぞ。それでいて、警戒心が強いわりに、妙に純真で、おもしろい」
 にたりと言われ、リオンはしばしどういう表情をすればいいのか非常に迷った。
「しかし、王子の環境でその警戒心は珍しいな。蝶よ花よと育てられたのではなかったのか?」
「ああ……私は、幼い頃、毒見役の侍女が、目の前で死ぬのを見たから……」
 ジョカの眉が寄る。
 その記憶は、リオンにとっても「痛い」記憶だ。
 いつも闊達な口ぶりの彼らしくもなく、ためらい、ためらい、記憶をつなぎ合わせるように話した。
「正確な年は覚えていない。三四歳、の頃だったと思う。クッキーだったか、紅茶だったか、それとも花瓶の花だったか……何がきっかけかも、実はよく憶えて、いない。侍女が突然倒れた。白目をむき、ぴくぴくと痙攣し、口から血と泡を吹いていたあの形相は……忘れられない。父と母がその場にいたことは覚えている。母上の腕が、震える私を後ろから抱き締めてくれた。そして、父が言った。一つ間違えばお前がこうなっていたのだ。それを心せよ、そしてこの者に感謝を、と。そんな意味の、言葉を」
 正確な全文は覚えていないが、どんな意味の言葉を言われたかは、憶えている。
 そして、リオンは、それを胸に刻んで生きてきた。目の前で自分のために死んだあの侍女の顔は、いつまでも、恐らく生涯消えないものとしてリオンの心に刻印された。
 だから、用心しろという教師の言葉にも、父母の言葉にも、心から頷き、そのとおりに生きてきたのだ。
 過ぎる日々の平穏に忘れそうになると、あの侍女の死に顔が心によみがえった。
「なるほど。まあいいことだ。王位継承者には、用心などいくらあっても足りんからな」
「あなたも、だろう?」
「さあ、なあ。普通の人間に殺される俺ではないし、あの密偵も俺のことを殺そうとしていたのかどうか……」
 ジョカは、そこで憂鬱な顔になった。どうやら、彼は本気で悔やんでいるようだった。
「何故だ? あなたは他国の密偵を処分しただけだろう? なぜそのような顔をする?」
 ジョカは言われて気づいた様子で、自分の顔をつるりと撫でた。
 そして、烏色の瞳に複雑な色を浮かべ、唇をつりあげて笑う。
「ふん……。王子、わかるか? その密偵はな、わざわざ俺に、呼びかけた、んだ。俺が気づかない内にこの部屋に入るなんていう俺でさえ仰天する離れ業をやってのけたくせに。ただびとのくせに、俺を殺す可能性を手にしたというのに」
 ジョカの言葉を咀嚼して、リオンは理解した。
「……殺すだけなら不意を突けばいい。なのに、話しかけた」
「そう。暗殺者としても超一流だったと思うぞ、あの密偵は。この俺が、まるで気づかなかったのだから。あのまま首でも一掻きにされれば、さすがの俺も生きてはいられなかったろう。だが、そいつは、俺に話しかけた。……何を言おうとしたんだかな。それを惜しむのは、おかしなことか?」
 リオンには、ジョカが何かを悔いているのはわかっても、それが何なのか、正確にはわからなかった。
 ただ、ジョカが、その密偵を殺してしまったことを後悔しているということは、理解した。
「……いや」
 短く、答える。
 密偵や細作といっても、人は人。
 記号のように思っていた自分を、リオンは戒めた。
 考える頭をもつ、人なのだ。
 ジョカの居室に侵入を果たしたその、ジョカでさえ賞賛を惜しまない人間は、一体何をするためにここまで来たのだろう。
 ジョカは立ち上がる。
「さて、と。王妃に会いに行くのだろう? せいぜい頑張ることだ。人を見る目は、人と接しなければ磨かれん。観察のヒントはやった。丸めこまれるも、裏を見抜くも、王子次第だ」
 リオンはカップを持ち上げて、最後の一口を飲み干した。
 残像を呼び起こす、流れるように優雅な動きで立ち上がる。
「わかった。また、一週間後に。その時に報告する」
 二度目の会合は、有意義なものだった、と、思う。



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Date:2015/10/23
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