翌日、二人が向かったのは「銀嶺(ぎんれい)の森」という歩いたら往復十日ほどかかる森です。
借り出した騎獣は走蜥蜴という種類で、見かけは大きな二足歩行する蜥蜴です。よく人に馴れ、暑さにも強く、足も早く、魔と遭遇しても怯えて立ちすくむことはありません。更には弱い魔ならばその匂いだけで近寄りません。冒険者御用達、ともいわれる騎獣です。
あなたはもちろん騎乗できませんので、前にあなた、後ろにダリルが乗って手綱を持ちました。
乗るときにはダリルに手を引いてもらいました。……いえ、正確に言うと、ひょいという感じで持ちあげられました。
「軽いなー。もっとちゃんと食わないと」
どうやらダリルにとって、あなたの体重など屁でもないようです。
すとんと下ろされ、背中にダリルの体温を感じて、ほっこりした気分になります。
そこで気がつきましたが――そういえば、ダリルに触られても他の人のような嫌悪感は起こりません。
何故かは、考えるまでもないことです。
ダリルはあなたを胸の前に抱え、手綱を持ち走らせながら弾む口調で言います。
「よかった。もうちょっとフクフクしてくれるとなおいいけど、前よりずっといい。前はちょっと痩せすぎだったもんな」
三年前のあなた、骨と皮ばかりだった頃に比べると差は瞭然です。こんな風に密着すると、女の子の柔らかさがわかる体になりました。
「……あのころは、弟の残飯しか食べるものがなかったから……」
食べ残しを貰う時の、弟の優越感と蔑みの眼差し。その時の惨めな気持ちが瞬時にありありと蘇り――ダリルと一緒に出掛けるということで弾んでいた気持ちが、一瞬で取って変わられました。
道端の草をむしって口に詰めたこともあります。
家の食材に手を出しますと容赦のない折檻を受けるため、盗み食いは勇気がいりました。それでも空腹に耐えられず何度か手をつけ、そしてばれたときにはしたたかに殴られ蹴られたものでした。
あなたを殴る父親は、明らかにそれを楽しんでいました。
人を傷つけ、いたぶるというのは、楽しいことなのでしょう。それが娘であっても。
いやだ、やめて、いたい、おとうさん。
そのすべての言葉が父親を煽りたてました。怯えた表情も、何もかも。
やがて、あなたは殴られても泣く事も怯える事もなくなりました。
殴られたくなかったので。
最初は止めていた母も、何度か代わりに殴られて、怯えた眼差しで暴力をただ見るようになり――やがて、そこから目をそらして見なかったことにすることを学びました。
そして弟は――。
……かつては、あなたは弟を優しいと思っていたのです。
自分を殴らない、母のように見て見ぬふりをしない、父親が行きすぎた時には止めてくれて、傷を治してくれて、ご飯までくれる。なんて優しい弟なんだろうと、……そう、思っていたのでした。
弟があなたに食べ残しの食事を与える時の、小馬鹿にした目が思い出されます。
あの目の意味に、ずっと長い事あなたは気づきませんでした。いえ、気づいてはいましたが、目をそらして判らないふりをしていたのです。
家の中で唯一の味方である弟を拒絶しては生きていけないから、自分自身に嘘をついていたのです。気がつかないフリをしていたのです。
そうして、自分を無知の中に閉じ込めておかなくては生きていけないから、あなたは自ら無知の檻に閉じこもっていたのでした。
今ならわかります。
弟があなたを馬鹿にしていたこと。偽善をして満足しながら蔑んでいたこと。優越感に浸っていたこと。欲望の捌け口として見ていたこと。
気がつくまいとして目を塞いでいたことすべて、わかるのです。
混ざった黒の絵の具が他の色を駆逐してしまうように、その記憶は強い力であなたの心を塗りつぶしました。
弟の残飯を手づかみで必死に貪っていたあなたを見ていた目。子どもの残酷さで、馬鹿にして笑っていた顔――。
あの時の、腐泥の中どこまでも沈んでいくような惨めさが口中いっぱいに広がります。
広がっていく苦い記憶――。
それを堪えるため、あなたは強く隣にあるダリルの腕をつかみました。
ダリルは片手でそんなあなたの腕をぽんと叩きます。
「大丈夫。どんっなに貧乏でも、二度とそんなことさせないから!」
「――え?」
「俺、奥さんを食わせるだけの甲斐性はあるよ?」
「……あ、うん……」
毒気を抜かれて、あなたが頷くと、ダリルが唸りました。
「うーっ。……可愛い」
片手で顎をすくわれて、振り向かされました。
そのまま、唇を封じられます。
重なったのは一瞬のことで、気がついたときには離れていました。
「あ……。ごめん、許して。つい」
真っ直ぐに生え揃った長い睫毛がぱちぱちと閉じられ、あなたは指先を口元に当てました。
学院に入る女生徒が受ける授業に、「正しい性知識」というものがあります。
結婚も妊娠も出産も推奨されている学院において、それは絶対に必要な知識でした。それほど学院における恋愛騒動は頻繁で、おおらかです。
ですから、キスされた、ということぐらいはあなたも判ります。一瞬で、かすめるようなものですが。
紅もつけていない薄い皮膚を指でなぞっても、指先に伝わるのは荒れた口唇の感触だけで、口づけの感触も体温も何も残っていません。
「……ダリル」
「はい、なんでしょうか。お、怒ってますか? ゴメンナサイ、許して下さい」
「もっと、ちゃんと、キスしてほしい」
――ダリルはぴしりと固まりました。
◆ ◆ ◆
目を見開けば、そこにはダリルの体温があります。
ダリルにすっぽり包まれて、不快なはずの揺れは意識の外に。男の匂い、鎧や布越しに感じる逞しい体や伝わる体温に、心臓が鼓動を早めます。
胸を温かくするこれが恋というものだろうと、ダリルの腕にもたれて思う間に、騎獣は軽快に進んで目的地に到着しました。
銀嶺の森は王都からは随分と離れていますが、さすが一日のレンタル料が金貨一枚の騎獣なだけあります。
王都を朝早く出発し、着いたのは正午の二時間以上前でした。
銀嶺の森は北の山脈の付近に位置し、近くに村があるのですが近頃この森に赤蜥蜴が出没するようになり、森に入れず森の恵みが獲れずに困っているというのです。
魔は魔核をはじめとした素材が獲れるため、弱い魔でしたら逆に村の利益になるのですが、さすがに最下級とはいえ竜種のはしくれ、火炎を吐く赤蜥蜴ともなるとそうもいきません。
赤蜥蜴はふつう、洞窟や岩山、砂漠などの不燃物の多い地帯に現れるのですが、恐らくは、はぐれでしょう。
下手に刺激し、炎でも吐かれ、森林火災にでもなろうものならたまったものではありません。
村人は魔の種類を確かめた時点で自力討伐を諦め、王都に依頼を出したのです。……なけなしの蓄えをすべて吐き出して。
騎獣から下りると、あなたは索敵の魔法を使いました。
「
奉魔」
下級なら一フレーズで充分です。あなたは指差しました。
「ダリル、あっち」
「……わかるの? どれぐらいの距離?」
「すごく遠い。二千歩ぐらい離れてる」
「索敵範囲ひろっ」
ダリルは小声で呟きました。
「ゆっくり、二百歩まで近づいて。そうしたら狙撃できるから」
「……その距離から狙撃できるの?」
「うん」
魔法で居場所が分かるあなたが先に立とうとしましたが、ダリルに止められたため、ダリルが先頭で、あなたが方向を指示することになりました。
森の道なき道を進むうち、ダリルが先頭でよかったとあなたは心底思いました。
森の中を直線距離で獲物まで行くと、枝の間に張り巡らされたクモの巣やら、ちょうど頭の位置に伸びた枝やら、足元のぬかるみやら茂みがたくさんあります。
そういうものをダリルが排除してくれるのです。クモの巣は剣で払い、枝葉も剣で切り落とし、ぬかるみはひょいとあなたを持ちあげて。ただ後ろをついて歩けばいいのは、とても楽でした。
獣道ですらない森のただ中を歩くのがこれほど大変とは……と思い知りながら、あなたは声をかけます。
「ダリル、止まって」
ダリルが止まり、油断なく身構えました。
「
奉魔。《視力強化》」
あなたの視力が強化され、森の木々の隙間から、赤い蜥蜴が見えました。
見える、ということは運よく障害物がない角度を取れたということです。
遮蔽物も多い森の中です。さもなくばもう少し近づかなければならないところでした。
「
奉魔。《氷弾》」
イメージするのは引き絞る弓。
あなたの眼前に形成された氷の弾丸は一瞬で飛び去ります。
強化された視界のなかで、狙い通りに頭を撃ちぬいた赤蜥蜴が倒れるのが見えました。
「――うわ。すごい」
ダリルは赤蜥蜴の死体を見て感嘆の声をあげました。
赤蜥蜴は末端とはいえ竜種です。体躯は人の二倍を超え、しかも四つん這いで動くため敏捷で、鱗は鉄より固く、しかもブレスまで吐く強敵です。それが、こんなに簡単に。
ダリルは戦場における魔法使いの強さを今更ながらに思い知り、国が魔法使い育成にこれだけやっきになっている理由にやっと納得がいく思いでした。
しかし、あなたはその巨躯を前に途方にくれていました。
「……どうしよう。どうやって持って帰ればいい?」
素人の悲しさ。どうやって倒すかばかり考えて、帰路のことをまるで考えていなかったのです。
「あ、それなら大丈夫」
一方、本職のダリルはその辺抜かりありません。笑って収納袋を取り出します。
「これは冒険者の必須用品で、この中に倒した魔を入れるんだよ。どんなに大きくても入るんだ」
「へえ……」
「綺麗に倒してくれたから、いい値がつくと思う」
「黒字?」
ダリルががっくりと首を折ります。
「……ごめん、まだ初期投資が回収できてない……」
初期投資が装備の金貨二十枚プラス騎獣レンタル料の一枚。
討伐報酬が金貨十枚。この赤蜥蜴が最低金貨十枚で売れるとして……、今のところは金貨一枚の損です。
――結果的には、鑑定してもらったところ、頭蓋を一発で撃ち抜かれているため鱗はほぼ無傷。破格の金貨二十枚で引き取られることになり、収支は金貨九枚黒字となりました。
「この調子でいけば、すぐに貯まる。ありがとう」
その日、一緒に食事をしながらにこりと言うあなたに、ダリルはふるふるとナイフを持った手を震わせて耐えました。
か、わ、い、い。
出会った頃のあなたは、男女どちらとも見分けがつかないほどがりがりの痩せっぽちで、顔は綺麗だけれど硝子玉のように虚ろな目をした作り物のように無表情の子どもでした。
しかし今のあなたはほどよく肉もつき、銀の髪に青い瞳。繊細な造作の、まかり間違っても男には見えないたいへんな美少女です。
普段無表情なだけに、笑顔の威力は物凄いのです。
そんなあなたが自分を見つめ、微笑み、好きだと言ってくれているのです。
生きててヨカッタ……!
単純なダリルが打ち震えるのも、無理はないかもしれません。
テーブルにはいつもダリルが食べているものより一段上のものが並んでいます。たったの一日で初期投資を回収し、金貨九枚も儲かったので、奮発したのでした。
柔らかく煮込まれた鶏肉と野菜の入ったシチュー、淡水魚に小麦粉をつけて揚げたもの、そしてパン。
シチューは旨みがじっくり染み出ていて、パンを浸して食べれば頬が緩む味です。
「美味しい?」
「うん」
あなたは頷きます。
小柄な事も相まって、思わず笑みがこぼれる愛らしさです。
学院で出る食事は粗食でした(粗食といってもあなたにとっては御馳走でしたが)。貴族の人々も同じものを食べるのは、魔法使いは前提として、実戦投入される存在だからです。
貴族だからと言って後背で見ているような贅沢は許されません。いえ逆に、貴族だからこそ、前に出て戦うことを求められるのです。
戦場で食事に我が儘を言わないよう、粗食に慣れさせる目的があるのでした。
「隠蔽」効果つきのローブを着ているので、ここにあなたがいることに、同じ食堂にいる人々は気づいていません。見えていても、注意を払わなくなるのです。
依頼があっさり片付いたので、ダリルはもう次の依頼を見つくろっていました。
「明日も行ける?」
「うん」
「……ちょっと遠いから、騎獣を使っても一泊することになるけど」
金額が高い討伐依頼はそれだけ強敵ということです。そして、そんな強い魔がほいほい王都の周辺にいるはずもありません。
「構わない」
随分表情は豊かになりましたが、相変わらず、端的に答えるところは変わりません。
ダリルはホッとして頷きました。
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