これまで生きていて、感じたことのない熱いうねり。腹の中心にぞろりと溜まり、頭を灼熱してまともに考えられなくするもの。
――怒りを、あなたは感じていました。
「ダリル」
呟きは、空気に解けて消えました。
ダリルがいたのは、変哲もない一軒家です。魔法が無ければ、とても見つけられなかったでしょう。
あなたは家の鍵をぶち壊し、ダリル目指して一直線に進んできました。――そして見たのは、手枷足枷をつけられ、顔にたくさんの痣をつけた、ダリルでした。
「
奉魔。《結界》」
極寒の声が響きます。
ダリルの体の周りに、守護膜ができました。
それから、あなたは振り返ります。
細められた青い瞳は静かに怒りを宿し、銀の髪は逆立たんばかりです。なまじ美しい少女であるがゆえに、凄まじい威圧感がありました。
……なのですが。
その瞬間、ダリルはあなたに見とれていました。怒りに包まれたあなたが、炎を従えているかのようです。
なんて綺麗なんだろうと、痺れたような頭で思っていました。
怒っているあなたの顔など、想像したこともなかったのでしょう。弟の顔は引きつっていました。
子どもの頃のあなたは、あの家で、何をされようと何を言われようと怒るということをしない、人形だったのですから。
「……ルテルクス。貴様……」
今のあなたは、ワンフレーズ詠うだけで、弟を殺せます。
弟が防御しようとしても無駄です。彼我の力量差は、全てを粉砕します。
「ダリルに、よくも」
弟の顔に、恐怖が浮かびます。
「わたしの、大事な、ひとに、よくも」
蛇に起こされて、探し回ったあの疲労。焦燥。もう殺されてしまったのかと、恐怖と隣り合わせの――覚悟。
決して、犯人をそのままにしないという。
臨界点を超越した怒りが、殺意へと変化した瞬間でした。
「駄目だ、殺すな!」
びくりと、あなたは振り返りました。
結界の内側で、ダリルが叫んでいました。
あなたは叫びます。
「いやだ!」
即座に怒鳴り返されてダリルは一瞬詰まりますが、すぐに立て直しました。
「たった一人の弟だ、殺したら必ず後悔する!」
「こんなやつ、弟じゃない!」
自分の存在を否定され、弟の瞳に傷ついた光が走りました。
言い争い、あなたの注意がダリルに向いた隙に、弟が詠唱します。
「
奉魔。《炎》!」
生みだされた火炎は、あなたの姿を歪ませることすらできずにねじ伏せられました。
「その程度か?」
弟の魔力は、別れた時からほとんど成長していません。
いくら平民には稀な魔力と言っても、学院ではせいぜい下の中、というところです。
学院で力を磨き、歴代何位かに入るあなたとは今や、天と地ほどの差がありました。
あなたはうっすらと笑って、かつて何度も言われた言葉を同じように言いました。
「才能ないな、おまえ。弱過ぎだ」
――かつて、努力するあなたを見下して弟が言った言葉。
それを投げ返し、あなたは屈辱に顔を歪める弟の表情を楽しみました。そう、楽しかったのです。
あなたは詠おうと口を開きました。
「アトーシェ! だめだ!」
制止するように呼ばれた自分の名に、あなたは体を固くしました。
アトーシェ。とある花の名前です。
――意味は健やかなる命。
あなたが無事に育つようにと、生まれて初めて両親からもらった贈り物。健やかに育ってほしいとの思いをこめてつけられただろう、あなたの名前です。
今となっては、その名前だけが。
硬直したあなたの体が、震え始めます。
小さな体です。小柄で骨も細く、幼少からの虐待の痕跡が一生残る体です。
「こいつが……こいつがいなければ……」
小さな体の姉から憎しみの瞳を真正面から向けられて、大柄な弟は体を固くします。
「お前さえいなければ、私は今も両親に愛されていたのに!」
打たれたように、姉よりずっと大きな弟の体が震えます。
あなたとは違い、弟は食事を与えられないことも殴られることもなく、不自由なく育ちました。
あなたの隣で、あなたから取り上げられた愛情を思う存分享受していたのが、この弟だったのです。
どうして憎まずにいられるでしょう。
「お前なんて生まれなければよかったんだ!」
生々しい傷跡がありありと浮かぶ、これまで貯め込んできた憎悪を込めた十八年の叫びでした。
「……っ!」
「そうすれば、私は、わたしは……っ!」
弟さえいなければ、あなたは、豊かではなくとも貧しくもない、普通の家庭で、普通に育ったでしょう。両親に愛され、人形と言われることもなく。
平民の家には稀な魔力を持つ弟が生まれ、その将来に父が過大な期待をしたことから、あなたの人生は狂い始めました。
弟と比較され、役立たずと言われ、無駄飯ぐらいと言われ……そして、とうとう、あなたは両親を殺してしまいました。
今となっては名前だけが、かつて両親があなたを愛していたという証拠でした。
あなたから見れば、弟こそが不幸の元凶です。
――ですが。
「俺が……俺が望んだことじゃない!」
赤ん坊であった弟に、その罪を着せるのは無体というものでしょう。
――ですが。
「ふざけるな! 父親と一緒に私を殴ったくせに! 私を犯そうとしたくせに!」
「そ、それは……っ」
父親があなたを虐待するようになったのは、弟が原因であっても弟の罪ではありません。
ですが、父親がそうしていたから、と、何も考えずその尻馬に乗り、あなたを馬鹿にし、成長してあなたを性欲の捌け口にしようとしたのは、紛れもなく弟です。
性的な知識が欠如していたあなたも、さすがに王都で三年を過ごし、この年になれば自分が何をされていたのか、わかります。
幼い頃、何もわからないまま性的虐待を受けていた子どもも、成長すればその意味がわかります。
自分が何をされていたのか、わかります。
無知で無垢なまま悪戯を受けていた彼らは、大人になり意味を知って、激しいショックを受けるのです。
……あなたも例外ではありませんでした。
何も知らず、何もわからず、ただ黙って行為を受けていた頃の自分があまりにも愚かで、無知で、思い出すと吐き気がします。
ダリルが忠告してくれたことに深く感謝する反面、弟の行為には、おぞましさしかわきませんでした。
あの時、受けていたときは意味がわからなかったがゆえに嫌悪もなかった行為。
それは、今や思い出すと鳥肌がたつ記憶と変わっています。
全身を震わせ、あなたは自分の体を抱きしめながら嫌悪を叩きつけました。
「気持ちが悪い……気持ちが悪い! お前の存在すべてが気持ち悪い! 忘れようとしていたのに……、あのまま一生私の前に現れなければ、忘れてやったのに!」
ダリル以外の人間には、触れられるだけでぞっとします。ダリルだから身を委ねることができたのです。
その大切な人を、汚濁の
象徴が殺そうとしたのです。
「私の前に姿を見せなければ、殺さずにいてやったのに……!」
先ほど止めたダリルも、あなたの見せた根深い憎悪に止めかねているようでした。
煮えたぎる怒りと殺意のまま、あなたは魔法を紡ぎます。
「奉……っ」
『やめよ。お前はダリルに嫌われたいのか!』
蛇の一喝にあなたははっとして、ダリルを見ました。
親に見捨てられそうな子どものような顔で。
ダリルは、結界の内側から願うようにあなたを見ていました。
「あ……」
瞳から怒りが拭い去られたように消え、恐れと、心細さの現れた揺れる眼差しで、あなたはダリルから弟へ目を移し、またダリルを見ました。
ダリルが見ている目の前で、人を……実の弟を殺したら……彼はどう思うでしょう。
自分の身内すべてを殺した女を、どう思うでしょう。
「……ダリル」
白い滑らかな頬を、一筋の涙が横切りました。
「……ダリル」
嫌われたくありませんでした。
誰に嫌われてもいいですが、彼にだけは――。
あなたは、うなだれました。
あなたの激情が収まった事を知ると、ダリルはそっと息を吐き出し、手枷を示しながら話しかけました。
「ちょっとこれ、壊してくれないか?」
「……わかった。
奉魔。《解錠》」
悪用されると危険なため、学院では教えない魔法です。自分で魔法の法則を理解し、作らなければ使えない魔法でした。
「結界も解いてくれる?」
自由の身になると、ダリルは弟に近づきました。
見下ろす眼差しは冷ややかです。
「――おい」
今まで見下し道具として扱ってきた姉に、正面から腐泥以下の嫌悪と憎悪を叩きつけられ、その恨みと憎悪を初めてまともに受けて、弟は青ざめていました。
……想像したこともなかったのでしょう。
あなたが、どれほど弟を憎み、嫌い、恨んでいるかなど。
家族全員の鬱憤晴らしの玩具であったあなたの気持ちなど、考えた事もなかったのでしょう。加害者とは、そういうものです。
自分がこれまで当たり前のように踏みつけにしてきた相手が、心を持つ一人の人間であると、ルテルクスはやっと気がついたのです。遅きにすぎる話でしたが。
ダリルは弟の胸倉をつかみ、視線を合わせました。青い瞳。あなたに良く似た瞳です。
その頬を、ダリルは殴りとばしました。
冒険者の一撃は、ルテルクスのものとは比べ物になりません。大柄な体が浮いて床に叩きつけられます。
「彼女は、お前のものじゃない。お前の所有物でもないし道具でもない。わかったか」
ルテルクスは殴られた衝撃よりも、叩きつけられた生の憎悪の方が余程ショックのようで、茫然とした顔のままです。
「もう二度と、俺たちの前に現れるな」
ダリルが吐き捨てると、弟はよろめきながらも立ち上がり、去ろうとします。
その背に、あなたは声をかけました。
「ルテルクス」
振り返ったその顔は、父に似ていました。
そしてよくよくあなたと比較すると、一部のパーツが似ていました。
血を分けた実の弟――けれど、心の距離は、他人よりも遥かに遠いのです。
「もう二度と、私の前に姿を現すな。私がお前を許せる日は、一生来ない」
弟を殺せば、ダリルに嫌われてしまいます。かといって、許せるはずもありません。
和解など、望めぬ関係でした。
――一生、姿を見せるな。
そうすれば、忘れたことにしてやる。それが、あなたの出せる最大限の譲歩でした。
ルテルクスはくっと顎を引いて、まともにあなたを見ました。
青く澄んだあなたの目は、もう硝子玉ではありません。復讐を止められ、やりきれない怒りと嫌悪が透けて見える、「人」の目になっていました。
そして、全身で、弟を嫌い抜いていました。そこに宿っていたのは、何があっても挽回できない猛烈な嫌悪です。
今にして、ようやく、ルテルクスは悟りました。あなたが人間であることを。所有物ではなく、人形でもなく、ひとりの人間であることを。
そして、関係の修復など、決して望めない事も。
ルテルクスは新たな目で、あなたを見ました。
人形ではなく、人間として、自分を睨みつけているあなたを。
唇が震え、何度かの失敗の後、声が絞りだされました。
「……わかった」
それが、弟との、決別になりました。
◆ ◆ ◆
あなたはダリルの頬に手を当てます。
「ダリル……傷」
「ん? ああ、平気だよ。こう見えても俺、冒険者だしさ。暴力沙汰には慣れてるし、あいつ弱かったし」
魔法を使って治療して、あなたはダリルに抱きつきました。
「……よかった……無事で」
十八歳なのに、十五歳ぐらいにしか見えないあなたが正面からダリルに抱きつくと、頭二つぐらいは身長に差があります。
小さくて可愛い、繊細な細工物のようなあなたにダリルはほっこりと微笑んで、華奢な体を慎重に抱きしめ返しました。
――ダリルは身内を手に掛けてはいけないという一心であなたを止めました。ですが、あなたにとって、あれは身内ではありません。他人よりも遠い人間です。
そしてそれを、ダリルは永遠に理解できないのです。
それが、あなたとの育ち方の違いでした。
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